希死念慮がある人は見ないで


死について今回は病死、他殺、老衰じゃなく自殺について書いていこうと思います。


他人の生死は他人がどうこう言っていいものじゃない

私は今17歳で元々希死念慮が強い人間でした。そのことは私の幼馴染ですら知りません。人前ではケロッとしていたし、そもそも人前に出ることがなかったので気づく人間もそもそもいませんでした。でも気づいてほしい気持ちがあったかと聞かれると、あったと答えると思います。

なぜ希死念慮があったのか

過去のnoteにも書いてきましたが生きる意味が分からなかったからです。
生きる意味が分からないという話を友人にした時、コイツは何が言いたいんだという表情をされたのは鮮明に覚えています。
そこで自分の気持ちは理解されないんだと感じた私はどんどん閉じこもっていきました。そこに白黒思考が加わり、理解されないなら死のうと思い、そこで初めて希死念慮が生まれました。


ここで矛盾が生まれていることに気づいたでしょうか。
冒頭では他人が生死は他人がどうこう言っていいものじゃないとあるのに、私は他人に自殺することを否定されたかったですね。「私は死んでほしくないよ。そのままで良いから生きててほしいな。」こういった言葉を求めていました。


今になって分かること

希死念慮が無くなった今、私は世の中残酷だなと感じます。
言ってみれば他人のことなんかどうでも良いことに気づきました。もし本当に死んだら周囲の人を傷つけるかもしれない、けどそれって一時的なんですね。自殺の原因が虐めや他者が関わっているとなれば話は変わると思いますが、死んだ理由を知らない人からしたら本気でどうでもいいんです、勿論生きるのも。
だから私が友人に話した時、雑な対応をされて当然だと思いました。

それなら私は死にたいと言われたらどうするのか。
結論、どうもしません。そういうことを他人に言う時、根本的なとこには救われたい願望があります。そのため、一時的に希死念慮が収まったとしてもまた出てくるんです。まぁ構ってちゃんみたいな感じですね。

例えば貴方が「生きて」と言ったから生きた人がいるとします。その人がまた堕ちてしまった場合、「お前が生きろって言ったせいでまた苦しんだ」と恨まれる可能性だってあります。そうなんです、一度希死念慮を持った人間って超絶面倒なんです。もうギャンブルです。


以上のことを踏まえて他人の生死に他人がどうこう言っていいものじゃないなと考えました。
救われるのは一瞬で、立ち直れるのは少数。そんな人達に時間を割くのが無駄だと感じませんか?希死念慮がある人を救いたいという気持ちは私にもあります。けど無条件に救うのは違う、立ち直れそうな人を選別しなければならない。かなりの労力が必要ですね。人を救うのって難しい。


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