ノリアキ「だれかおれをすきになれ」の歌詞考察と想い


まず、この投稿が私にとって初めての投稿であり、noteの使い方が下手で
あるということを先に詫びておきたい。

さて、この記事タイトルを読んで、この私の記事を開いてくれた人の多くは、ノリアキの「だれかおれをすきになれ」を知っている人だと思うが、
知らない人のために、まず私の記事を読む前に「だれかおれをすきになれ」を聴いてきてほしい。
知っている人も、ぜひ、もう一度聴いてきてほしい。

聴いてどうだっただろうか。
初めて聴いた人にとっては、「最近のアーティストと比べると冴えない見た目の男性が歌っている。」「チープなシンセサイザーな感じの曲だ。」とか人それぞれ色々と感じたことがあっただろう。
既に何回も聴いている人にとっても、人それぞれ感じていることがあるだろう。
私にとって、この曲は辛くなったときに、「そっと明日を生きる力を与えてくれる曲」だと感じ、そういうときに、よく聴いている。

さて、このノリアキという男については、どう説明すればいいのか、一晩考えたが、正直わからなかった。

 なので、引用させて頂く、

ーノリアキー
卓越したセンス、歌唱力、ファッションなどあらゆる分野で時代を先取りするカリスマ的存在。それがノリアキである。
(ニコニコ大百科より‐ノリアキとは

ノリアキという男について、詳しく知りたい人は自分で色々と調べてほしい。色々と伝説的なものが出てきて、面白いと思う。

歌詞考察に入る前に、最後なぜ私が今更になって、ノリアキ「だれかおれをすきになれ」について書こうと思ったか、ここに書いておこうと思う。

一番は粗相 さんという方が、noteで”ノリアキ「だれかおれをすきになれ」の歌詞考察”を書いており、私も、私なりにこの記事をリスペクトしながら、この曲についての考えを書きたいと思ったからである。

他に、1年前に、ノリアキが約10年ぶりに「コロナと闘ってる世界中のみんな、最前線で闘ってくれてる医療従事者の皆さんのために」一夜限りの復活ライブを行い、あの時の感動を再び感じようと思ったためである。

この「だれかおれをすきになれ」を考察するにあたって、YouTubeのコメント欄などに、「この曲は考察するべきではない」など書かれているのを見た。
確かにノリアキのREALスタイルから考えると、ノリアキは格闘家であり、「格闘家が試合の前に「ここで右ストレート入れよう」とか「その後にここでフックフック」とかって考えているわけねえじゃん」とおっしゃっている通り、ここでこの曲を考察するのは、邪推なのかもしれない。
けれど、私はノリアキのおかげで人生を楽しいと思える時がある。その気持ちを何らかの形で表したい。この「だれおれ」という曲を多くの人に知ってもらいたいと思ったためでも書いている。

でも、これは私個人の考察でしかないため、歌ったノリアキ本人、作詞した古屋雄作本人の意思、考え、そして、この曲を聴いた人それぞれの考えとは、違う可能性が大いにあること、
私のこの考察にいくら批判や愚痴を書いてもらっても構わないが、ノリアキ、古屋雄作さん、他の人のことを侮蔑することは、止めていただきたい。
上から目線なことかもしれないが、その点を考えてぜひ、楽しんで見てほしい。

さて、前置きがだいぶ長くなってしまった。私なりの歌詞考察をここに書いていこうと思う。

歌詞考察

まず、曲名の「だれかおれをすきになれ」は、そのままの通り
誰かに自分を好きになってもらいたい。ということである。
この曲の中の”おれ”にとっては、愛という意味での好きであり、恋愛感情的なものだと私は思っている。

一番。ここは、なぜこのような曲名が付いたのか?それをここで示しているのだと私は思った。

【けむくじゃらのコリーに サンダル持って行かれちまった】

けむくじゃらのコリー、コリーは牧羊犬であり、個人的にとてもかわいい犬だと思う。そんな犬にさえ、サンダルを持ってかれて、MVの中でノリアキは、サンダルではなくスニーカーで砂浜を歩いている。
そうやって歩けばスニーカーは砂で重くなり、場にあっていない状態で歩いていることになる。
つまり、この”おれ”は愛するということには、一歩一歩前に進むのが重く、そして、恋愛という場所にあっていない人物なのではないかと思う。

さらに、”けむくじゃら”という言葉だが、これは、毛がぼさぼさということを表しているのではないか?
コリーは、毛がぼさぼさであっても、人から愛されるのに対して、
人は、毛がぼさぼさだと、「清潔感が無い」とか悪い印象を与えられるという対比なのではないだろうか。
そして、現にMVのノリアキは髪型がぼさぼさである。

”サンダルを持って行かれちまった”これは「足をとられる」ということを表しているのだと思う。足をとられるの意味の中には、「順調な進行がさまたげられる。」という意味がある。
順調な進行とはなんだろうか?色々と考えたが、私は「おれが誰かに恋をしていた」もしくは、「おれが誰かと付き合っていた」のではないかと思う。
考察していく内に後述の「おれが誰かと付き合っていた」可能性が高いと私は考える。
そして、その順調な進行がさまたげられる。
つまり、”おれ”は振られたのではないだろうか。

【ドントレットミーダウン】

"Don't let me down"「私をがっかりさせないで」「オレを失望させないでくれ」
これは、「振らないでくれ」と言いたいのではないだろうか。
振られることで俺を愛してくれる望みを失うことを恐れたのではないだろうか?
誰かと付き合っていたのなら、自分を愛してくれていた、好きでいてくれた唯一の人を失い、自分ですら、自分を愛せず、好きになることが出来ず、曲名の通り、「だれか(だれでもいいから)おれをすきになれ」と言っているのではないだろうか。
そして、この”Don't let me down”はビートルズの楽曲でもある。
この”Don't let me down”の曲については、Wikipediaではこう書かれている。

”ジョン・レノンが後に妻となるオノ・ヨーコに向けたラブソングとして書いた楽曲。ポール・マッカートニーは「ジョンはヨーコと一緒にいて、ヘロイン中毒で偏執病に陥っていて危なかった。興奮したり、笑い出したり、密かに恐怖を感じていたこともあっただろう。『ドント・レット・ミー・ダウン』は、そんなジョンの心の叫びだった。ヨーコにそう言おうとしてたんだね。『ここから抜け出す。弱さをすべてさらけ出す。だから僕をがっかりさせないで』って…泣いて助けを求めていた」と語っている。”

これは、この「だれかおれをすきになれ」という曲の中の、おれにも通ずるのではないだろうか。

【おれは死んじまったヤドカリに祈った】

死んじまったヤドカリとは、なんだろうか?
ヤドカリは成長すると、新しく自分の身体に合った殻に取り替える。けれど、死んでしまったら殻を取り替えることもできない。
さらに、ヤドカリはとても皮膚が弱いらしい。殻を被らないと怪我をして死んでしまう。
そんなヤドカリに、振られて、新しく気持ちを切り替えることが出来ない&恋の傷にとても弱く、誰かを好きなることが出来なくなった”おれ”を表しているのではないだろうか。
けれども、自分は生きている。自分はこのヤドカリのようにならないように、そして、「(気持ちを切り替えられない優柔不断さと恋の傷に)安らかに眠れ」という気持ちを込めて祈ったのではないだろうか。

そして、文字として書き直して見ると少し気になる点がある。
死んじまったヤドカリとして読むのでは無く、
「俺は死んじまった。ヤドカリに祈った。」
ここには、二つの文が隠れているとも考えられるのではないだろうか。
おれは人を自ら誰かを好きになることが出来なくなり、ある意味では死んでしまった。その時、たまたま砂浜にいた自分よりもちっぽけな存在だが、成長して自分の殻を取り替えることが出来るヤドカリに、自分のことを祈ったのではないだろうか。

【ドントレットミークライ】

”Don't let it make you cry”「泣かせないでくれ」「嘆かせないでくれ」
これは、振られて泣いてしまう自分を見たくないことを表しているのではないだろうか。
男には泣いていいときが3つあるという慣用句がある。

1.生まれたとき
2.親が死んだとき
3.

三つ目はバラバラなことが多いらしい。一つ目、二つ目も文献によっては違うことがあるが大体似ている。
この三つ目が、おれにとって、今だったのではないだろうか。
私はこのドントレットミークライにも、ドントレットミーダウンのときと同じように、何か他の曲の想いが入っているのではないかと思った。
そしたら、TM NETWORKで「Don't Let Me Cry」という曲があった。
この曲の歌詞の部分に気になるところがあったので、抜粋する。

「あきらめ上手な大人になれず
無邪気なままの子供でもないさ」
振られたが、諦めることが出来ず、けれども子供のように再び誰かを簡単に好きになる好きになることが出来ない

「一人の夜なんて悲しいよ」
「踊りたい 踊りたい 踊りたい
誰より誰よりも君と踊りたい」
この後の「だれかおれをすきになれ」の歌詞で「夜と踊った」というのがある。君と踊りたいが、それは出来ず、一人でいるには悲しいから、夜と踊ったのではないだろうか。

「愛したい 愛したい 愛したい
誰より誰よりも君を愛したい
愛せない 愛せない 愛せない
今の僕 君より他に愛せない」
おれは君しか愛すること、好きなることが出来ないことへの暗喩ではないだろうか。

【魂が燃え尽きて、灰になるまで夜と踊った。】

魂が燃え尽きるのは、誰かを好きになるということがもう出来ないというのを言いたいのではないだろうか。

灰になるまで夜と踊った。これは、前述のとおり一人でいるには悲しいから、夜と踊ったのではないだろうか。
そして、灰になるまで踊ったということは、新しく魂が燃えることが出来ないくらい踊った。
自分は新しく誰かを(自分自身も)好きなることはもうない。と伝えたいのではないだろうか。

誰か俺を好きになれ 誰か俺を好きになれ

これは、この曲の曲名であり、テーマである。
誰かを好きになることが出来ず、誰かから好きになってもらうのを待っている。そんな難しい願いを何度も叫んでいるのではないだろうか。
そして、言葉にすることで自分で自分自身を好きなろうとしているのではないだろうか。

傷だらけのマッチ棒 スカンジナビアの夢 ワイドンチュー ラブミー?

傷だらけのマッチ棒 スカンジナビアの夢 とは何だろうか?
粗相さんの考察に”スカンジナビアとマッチ棒,とくれば連想されるのは「マッチ売りの少女」の童話である。”と書かれている。
マッチ売りの少女の話は、少女がマッチに火を付けると、暖かいストーブや七面鳥などのごちそう、飾られたクリスマスツリーなどの幻影が一つ一つと現れ、炎が消えると同時に幻影も消えるという不思議な体験をして、最終的には、少女は凍えて死んでしまうという話だ。

そんな幻影を与えてくれるマッチ棒でさえも、自分にとっては傷だらけの幻影、思い出ばかりで、そして、夢であったということだ。
この後の歌詞にも傷や夢という言葉が出てくる。

そして、傷だらけのマッチ棒だけで考えると、先程灰になってしまった魂に再び火をつけようとしているが、灰になってしまった魂にマッチだけで火を噴き返すなどと考えづらく、さらにそのマッチ棒は傷だらけである。
新たに前に進もうとしても、その前に進む力は余りにも弱いことを表しているのではないだろうか。

ワイドンチュー ラブミー?
”Why Don’t You Love Me?”「なぜおれを愛してくれないんだ」「おれを愛してくれてもいいじゃないか?」
自分が愛されないことへの悲痛な想いを叫んでいるのだろう。

さて、これも何か引用した曲があるのではないだろうか。調べてみると、結構「Why Don’t You Love Me」と名付けられた曲が多い。その中で、「だれかおれをすきになれ」が上がった2007年よりも前の曲で探すと、introというアーティストがWhy Don’t You Love Me?という曲を挙げている。
その中の歌詞を自分なりに和訳して、書こうと思う。

「Why don't you love me the way that you used to?」
↓日本語↓
「昔のように俺を愛してくれないか?」
おれが誰かと付き合っていた時みたく、戻らないか?と誰かに伝えたいのだろうか。

「All that I have is a broken heart when your love isn't here, here, here」
↓日本語↓
「あなたの愛が、ここに…俺のところに…目の前に…ないとき、俺にあるのは傷ついた心だけだ、」
前述した傷のことを表しているのではないだろうか。

つまづき転がってここまで来たのさ

色々と愛した中で失敗した事や上手くいかないことが多くあったのだろう。
そうして転がってでも、一生懸命にここまでやって来たのだろう。
それなのに振られてしまった。この時の心のダメージは、”おれ”にとって相当辛いものだったのだろう。

胸の傷がしとどにうずくだけだがや(夢の中でも偽るだけだから)

粗相さんの方では,「いきなりの名古屋弁だが,おちゃらけているわけではない。この物語の主人公が名古屋あたりにいることがここで示唆される。ノリアキは山形生まれのチェリーボーイであり,大学は筑波大学なので名古屋との縁は浅そうであるが,この歌の主人公はそうであるというだけの話である。作詞をした古谷氏は名古屋生まれであることが,この歌詞を生み出したのだろう。
ここで新たな視点,つまりこの物語の主人公をノリアキと私は置いて書いてきたが,実は古谷氏の胸の内を歌ったものである可能性が見えてくる。」と書かれている。

私も同じだと思う。というか「そうなのか!」と考えさせられた。
しいていえば、ここの中で、おれは胸の傷が疼く、 心に強い痛みを感じるほど、沢山泣いたのだろう。

「夢の中でも偽るだけだから」これは、先ほどの”スカンジナビアの夢”のことではないだろうか。夢の中でも幻影を見ていることを表しているのではないだろうか。
でもまあ、偽った夢がマッチ売りの少女の話であるのは、何とも悲しいことである。

ワイドンチュー ラブミー?だれかだれかだれかおれをラブミー

「ワイドンチュー ラブミー」さて、これは、先ほども歌っている。
そして、「だれかだれかだれかおれをラブミー」もまた、最後が英語になったが、「誰か俺を好きになれ」と歌っている。
ここは、何度も伝えたいほど、訴えたいほど、おれが愛を求めていることを表しているのではないだろうか。

ここからを曲の転調、歌詞などから二番だと仮定する。
二番は比較的に、おれが心の弱さを表しながらも進んで行くことを表しているのだと思う。

寝ぼけづらであおるオレンジジュース」

寝ぼけづらとは、ぼんやりした表情の顔である。この後に夜明け前のバスに乗り込むという歌詞がある。おれが夜明け前で少し眠気がある。心の傷で少し疲れてしまっている、前に進むのが億劫になっていることを表しているのではないだろうか。

ここでの「あおるオレンジジュース」とは、どういう心情なのだろうか?
調べるとアメリカでは、朝にオレンジジュースを飲む習慣があるらしい。
MVでは、ノリアキはアメリカにいる。
そして、丁度このタイミングでノリアキはマックの飲み物らしきものを持っている。(これは、オレンジジュースだったのかもしれない)
けれど、ノリアキはアメリカ人ではない。本来アメリカでは、朝に飲むものを、アメリカ人ではない”おれ”が夜明け前にオレンジジュースをあおって飲んで、時差で寝ぼけていることを表しているのかもしれない。
”アメリカの高名なホテルでは「オープンアイズ(Open eye's)」と称して、目覚めの1杯にオレンジジュースを出してくれます。”という書き込みもあった。
ここで、おれは目覚めるために、もっともっと前に進むためにオレンジジュースを飲んだのではないだろうか。


バスタオルでくるんだドンペリニオン ピンク

ドンペリニヨン ピンク。高級シャンパン、ドンペリの中でも女性に人気があり、普通のドンペリよりも長く寝かせ、より高値で売買されている。
このドンペリは、愛してくれた人への手土産だろうか?
わざわざ包装してもらわず、バスタオルでくるんでいたのはなぜだろうか?
本来バスタオルは身体を拭くものである。弱った自分を払拭するためにバスタオルでくるんだのだろうか。

東へもっともっと進む カモン カバンを持って

東というのは、太陽が昇ってくる方角だ。新しく自分の心に魂が昇って来ているのだろう。そして、もっともっと前に未来に進むことを決意したのだろうか。
カバンには、何が入っているのだろうか。
財布や服などの荷物だろうか。
それとも、自分の新たな気持ちだろうか。

ドンレットミーゴー

”Don't let me go”「俺を放さないでくれ」「俺をつかまえていてくれ」
さっきまでは、前に進んだ感じだったが、英語にて、まだ未練があるように思える。まだ心の奥底では、少し未練があるのだろう。
「Don't let me go」これに関してはいい曲が見つけられなかった。
松任谷由実さんの 「 情熱に届かない~Don’t Let Me Go」が年代的には怪しいと思ったが、歌詞的に、私はこの「だれかおれをすきになれ」に通ずる感じはなかった。ぜひ、これに合いそうな曲、考えがある人はぜひ、教えてほしい。

夜明け前のバスに乗り込み、片手で鶴を折った。

ここでYouTubeの「だれかおれをすきになれ」にあるコメントで、私が「良いな。」と感じたコメントを書こうと思う。

”片手で鶴を折れるようになるくらいまでに退屈で平凡な人生を送ってた彼が、勇気を振り絞って次のステージへ進むためにバスに乗り込むもののまだ心に迷いがある
つまり鶴とは日常であり、夜明け前のバスが非日常への片道切符なんだ。”

これは、上述の内容を裏付けているほどではないが、当てはまる部分があるのではないだろうか。
未練がある中でも、変わるためにバスに乗り込み、鶴を折って、今度は死んじまったヤドカリではなく、未来への祈りを込めたのだろう。

湿った暁のロード シベリアの導火線 ワイドンチュー ラブミー?

これは、湿った暁のロード と シベリアの導火線 この二つの対比ではないだろうか。
湿った暁のロード(未練がある自分)
シベリアの導火線(新しく前に進もうとする自分)

けれど、そのどちらの自分も愛されていないと最後に訴えているのだろう。

湿るには、「元気がなく沈んだ状態になる。火が消える。」などの意味がある。バスに乗って新しく前に進もうとしているが、新しく魂に火が付き始めているが、それもまた、消えようとしている。という人間の心の弱さを表しているのではないだろうか。

新しい髪型をきみに見て欲しいだけのおれなのさ

この君というのは、おれが愛した人だろう。
バスに乗り込み、前に進もうと新しくなった(髪型を変えた)自分を愛した人にやはり見てほしいのだろうか。

目の奥が不思議としばたくだけだがや(誰の心も過ぎ行くだけだから)

目の奥がしばたくということは、泣きたくなっているのだろうか。
新しく前に進んでも、結局は誰にも愛してもらえなかったのだろうか。
自分は変わったのに、それでも誰にも好きになってもらえなかったことが、不思議で、思いもよらなかったのだろう。
けれど、前の名古屋弁の時には、沢山泣いたのだが、今は泣きそうにはなるところで、止まっている。
おれは、強く成長したのだ。
けれども、おれが誰かに求めている心はただ過ぎ去ってしまう。
本当に自分が願っていることは、昔とは変わらず、未だに叶っていないのだろう。

ワイドンチュー ラブミー?だれかだれかだれかおれをラブミー

この歌詞は、全く同じ通りに前に出ている。
結局のところ、自分が変わることは出来ても、自分が最初から求めている”愛”というのは、手に入れることが出来ず、誰の心にも自分なんかは気にも留まらず、再び誰かから愛されることを訴えているだろう。

教えておくれ 階段をのぼる順番を

階段なんかに上る順番はない。ただ一歩一歩前に足を上げて進めばいい。
けれど、この”おれ”はバスに乗り込み、新しく前に進んだ。けれども、誰からも愛されることは、無かった。
つまり、もう自分の中で前に進んだのに、失敗し、もう誰かに愛される方法がわからない状態になっている、悲痛な叫びを表しているのではないだろうか。
けれども、誰の心にも過ぎ行く人の声は、誰かに届いているのだろうか。

教えておくれ 愛される条件を

愛される条件とは、なんだろうか?
仲の良い友人関係?恋人?夫婦?家族?
それは愛される条件ではなくて、ただ愛が出やすい環境だろう。
たとえ恋人であっても、ただ共依存しているだけかもしれない。
たとえ家族であっても、その関係は冷え切っており、誰とも会話が無いかもしれない。
エーリッヒ・フロムが書いた本で、「愛するということ」(原題 The Art of Loving)という本がある。
そこで、フロムは「愛は技術である」という前提条件を与える。
では、その技術を持たない人は、どうすればいいのだろうか。
では、愛の習練を積むことが出来ない人は、どうすればいいのだろうか。
誰に教えてもらえるのだろうか。
どこで教えてもらえるのだろうか?

教えておくれ 人生のコントロール方法を oh oh

ニーチェが著書「人間的な、あまりに人間的な」で、こう書いている。

「人生を行くときの手すり

 注意を怠ると転落事故が起きかねない渓流沿いの細道や橋などには、必ず手すりがついている。実際に事故が起きるときには手すりもろとも落ちてしまうだろうから、その手すりは万全さを保証しているわけではない。しかし、手すりがあれば、それなりの安心を得ることはできる。
 このような手すりとして、父親、教師、友達は、私たちに安心と保護されているという安心感を与えてくれる。彼らに完全によりかかっても助けにはならないかもしれないが、心の大きな支えにはなってくれる。
 特に若い人には、こういう手すりのような役割を無意識に果たしてくれる人がどうしても必要だ。それは、若い人が弱いからではなく、よく生きていくためにだ。」

現代のこのようなインターネットで個人が活躍している社会。
海外に比べて、(昔より良くなったがまだまだ)父親が育児休暇を取ることが少なく、
学校では主体性を持つことを強く訴える中で、
友達は自分のことで精一杯で、
若い人は手すりを与えられているだろうか?自分で手すりの作り方を調べ、自分で手すりを作るのに力を使い果たして、道を進めないのではないだろうか。
誰の心にも、気にも止まらない人には、手すりなんてそもそもあるのだろうか。

【傷だらけのマッチ棒 スカンジナビアの夢 ワイドンチュー ラブミー?
つまづき転がってここまで来たのさ
胸の傷がしとどにうずくだけだがや(夢の中でも偽るだけだから)
ワイドンチュー ラブミー?だれかだれかだれかおれをラブミー】

そして、再び一番が繰り返される。一番はおれに「誰か好きな人がいた」
もしくは、「誰かと付き合っていた」そして、「振られた」と、私は考察した。
ここでのおれは、
 また「誰かを好きになった」のだろうか。
 それとも、
 また「誰かと付き合っていた」のだろうか。
そして、
 再び「振られた」のだろうか。
この”おれ”は、この悲痛な想いをループして生きていくのだろうか。


それとも、これは、過去の回想であって、
 おれはだれかをすきなったのだろうか。
それとも、
 だれかはおれをすきになったのだろうか。

MVでは砂浜の中ノリアキが、後ろ姿のなか前に進んでいるところで終わっている。


私は、いや、俺はこの曲を通してノリアキが10年経っても多くの人に、

好きになっている。
愛されている。

ということは、
 この”おれ”も、
  だれかがすきなっている。
  だれかに愛されている。
 と思う。



今、改めて粗相さんの考察を見てみると、とても読みやすく、詩的で、考えされる内容であると思う。
少しパクリみたいなところも出てしまった。そこはインスパイアされたとして、読んで欲しい…
もう一度書くが、見ていない人は、ぜひ、見てほしい。

ノリアキ「だれかおれをすきになれ」の歌詞考察


さて、書いていて、ノリアキの伝説的なライブから一年と一日がたったが、
人である以上、ある程度何かを愛さないと生きていけないと感じることがある。
その何かは、人でなくても、動物であっても、物であっても、何かそれ以外でも、何かを好きでいないと人生を楽しむことが少し難しくなると感じる。

これから私の人生に何が起きても、この曲が好きという事実は変わらないだろう。
愛されないものの悲痛な叫び、
普段日に当たらない者の想い、
これを聴いている人の愛、
彼のリアルは、多くの人に伝わっていくだろう。

世の中は諸行無常であるが、このノリアキの曲は永遠の中に生きて、これからも多くの人に愛を与えて行ってほしい。と心から願う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?