「月報こんとん」1月号(2022.1)を読んだ感想と、短詩の連作を読むときにおもうこと等

「月報こんとん」1月号(2022.1)を読む前に 

 最初の「こんとん」を楽しみに3人×10句がどういうふうになるのかうきうきして一月を過ごしながら、「月報こんとん」1月号を目にして最初に驚いたのが10句にタイトルがついていて、連作になっていたということだった。連作となると、1句それぞれの鑑賞と、通底する事柄、タイトルと句の配列の意図、などなど美味しいところがたくさんだ。読み応えがあるということは、作り応えはもっとあるわけで、こっそり入れられたソースの中のデーツ的な隠し味や思いもよらないランボーっぽい槍付きの落とし穴みたいなものもあるだろうから、読む前からもうたのしい。それに、この「こんとん」という企画の最初の発表だから3人とも熱の入れようがわりとあるだろうなという感じで、食べる前から俺はまるで人間火力発電所か。
 ただ、毎月の「こんとん」を読んでいくための方針。
① それぞれ3句くらいの感想を書く。
② 連作のタイトル等についてもメモする。
といった塩梅。配列はそのときどき気になったら。

松尾優汰「蒙霧升降(ふかききりまとう)」の感想等

 タイトルや題辞によれば連作の語り手(たち?)は比喩としての霧の中にいるそうで、学校生活を送っているらしい。ただ、〈校歌〉〈学級会〉といった学校特有の語と〈グループをつくる〉とか〈ミはミんなのミ〉といった学校の授業っぽい語が、〈かっこつけちゃって〉〈けけけと笑った〉〈ざァんねん〉といった露悪的な道化っぽい言葉遣いとともににんげん的な生活の情景が前半の句で用いられているのだけれど、後半ではわりと物静かな口語の発話体に変化して〈輸血〉や〈肋骨〉〈お葬式〉といった不穏な感じをまといながら、最後の二句では光に近づこうとしたけど、叶わなかったと諦めと満足感と冷めたまなざしが混ざったような余韻が漂う、という感じ。前半から後半にかけて抽象度を徐々に上げて行って語彙の選択と句の配列で霧が濃くなっていくように語り手や情景の輪郭がぼやけるようにしながら最後で霧は晴れていったっぽい。
 

裏声で校歌斉唱 持久走の拍手

 第一句は、体育館とか運動場とかの手狭なところであふれる頓狂な声と足音と手とそれを発する若いにんげんたちの群れのざわめきがたいそう喧しい。冒頭でそんな情景を提示してきたのに、十句目では

なりたかったひとの蓄光塗料缶

 なんてだいぶ静かになっちゃって、〈塗料缶〉がなんだかこころの骨壺みたいだな。ただ、こういうふうに連作の配列に注目するのは、そこに語り手や主人公の変化や情景の時間経過とかを見出して、物語、とみなしているからなのだけれど、これは短歌の連作を読むときによくするやつ。
 ついでに、モチーフ?の霧について思い出すと、霧の中というのは視界が悪くなるだけではなくて、その発生が朝だったりするので街でも静かだし田舎の山ならなおさら静かだし、水滴だから濡れるし身体は冷えていく。そういうことと、連作の最後の句の無音で、液体で静物、という印象と霧が通じている、ともいえる。ただ、霧にまつわるイメージとはまた別のモチーフが最後の二句の〈光〉なわけで、学校生活のイメージからだいぶ離れて霧ではなく光に着地しているのがこの連作では重要な感じがする。

 光にはなれなくて、点滅がやっとで、うれしかった

 この句がこの10句のなかで一番好きで、霧の中で明滅する輪郭のぼやけたひかりがきれい。霧の中のひかり、というのは太陽光が曇り空でローライトにそそぎ、それに照らされてぼんやり見える白い霧という前提があってはじめて成り立つから、たんなる暗闇のなかの光ではない。これは霧の一般論だけではなくて、この10句のなかに暗闇のモチーフが、せいぜい〈お葬式〉にまつわるお通夜くらいだから、左記の屁理屈はいちおう有効だろう。そして音数についても、10・9・6という字余り25音で大胆に言ってくることにも驚き。ふたつの読点まで使っているということは、躊躇いなのか恥ずかしさなのか、歯切れがいいとは言えない発話の口語体を演出しようとした感じ。

なりたかったひとの蓄光塗料缶

 ただ、その光が蓄光というのだから、朝や日中には光が弱くなるのは当然といえば当然かしら。最後に、あこがれていたであろう人の光の正体が、霧がはれて白日の下にさらされた感じで、冷めた目つきで見下ろしているようにもおもわれて、ずいぶんな書き味。
 そして、この連作の前半から後半への変化した点が、5句目

グループをつくれなかった季語が来る

 だと思っていて、4句目と6句目のあいだというだけではなくて、四季に入れない言葉を〈グループをつくれなかった季語〉と名付けて無季の短詩を予感させながら〈季語が来る〉と迎え入れている、と読んだ。〈グループをつくれなかった〉は、班つくりにあぶれた友達のいなそうな主人公の語り手がその主体の場合もあって、季語がそんな語り手のもとにやってきた、ともとれるけれども、どちらかに断定する必要もあんまり感じないし、「川柳を読んでる」モードで接しているからやや前者に肩入れしておこうかな。
 松尾さんはやりたいこといっぱいあるんだなあという感じ。

二三川練「闘争本能」の感想等

 一読して、10句それぞれのつながりはあんまり感じず、とりあえずタイトルから察して、好戦的な性分を自覚していていつでも闘うこころを隠し持っていたり、たましいで帯刀していていつでも一刀するよという語り手がでてきますよー、という印象をもってまた改めて読み直すことに。

侘び寂びのない強盗だった

 これは一読目からおもしろくて笑ってしまった。わびは茶道、さびは俳諧、の美意識とよく言われたりして、閑寂を味わうくらいの考え方とは一般的には言えて、それと強盗は良識的にもお得意の屁理屈の読解でもなかなか結び付くものではなくて、この面白味は強盗にあったのにすましてわびさび云々いってる語り手の負けず嫌いの強情さともいえるし、そのわびさびの機微を感知する風流人が大真面目のままでいることに笑ってはいけない雰囲気の面白さともいえるし、これが強盗の被害にあった人とかのインタビューの受け答えだったら絶対ネタにされるやつでしょ。
 蛇足なのですが、数年前にネットでネタにされた街頭インタビューの「自己防衛おじさん」を思い出しながらこの句を読んだけど、冷静になって考え直すと自己防衛おじさんは顔が面白いのであって、言っていることが面白いわけではないな。ちなみに自己防衛おじさんについて調べたら、本人がツイッターやっててその肩書きがおもしろすぎてこんなんわらうでしょうよ。

間に合えばコーレーグスの発情期

 コーレーグスって知らなくてしらべたら辛そうでおいしそう。どんな匂いがするんだろう。そんな泡盛漬けの島唐辛子の調味料の年に一度の?発情期に駆け付けようとする語り手。繁殖期でもなく産卵期でもなく、発情期というのが辛さと高いアルコール度数のイメージに結び付きやすい感じがする。それに、コーレーグスとしらべると、赤い唐辛子と泡盛がガラス瓶に入れられている画像がでてきたものだから、蟹やカタツムリみたいな甲殻類みたいない分類になっちゃった。名前もマングースとグスだけ似てて、沖縄の言葉っぽい。コーレーグスって植物や黒麹に関連するなら、あんまり雄雌なくて両性っぽいし、温かい気温のなかで、夜になると家々の戸棚から這い出てきて、砂浜にむかって移動しながら、道路で車に潰されるのが夕方のニュースで毎年報道されて、大潮の新月の暗い波打ち際で大変な感じになっているコーレーグスの群に急いでいる語り手。語り手の目的ははっきり書かれていないけれど、たぶん採捕が目的なんじゃないかしら。捕まえるの楽しそうだし、コーレーグスって発情期を重ねるごとに辛さや旨味が増す感じするし。

着ぐるみの外は白目の白昼夢

 最後はこわくてわらっちゃった。着ぐるみの中のにんげんの生々しいところが漏れ出ちゃうのは、その目の穴だと思うのだけれど、それはじぶんが着ぐるみを着ていないで、着ぐるみを着ている中の人の息遣いに常軌を逸した雰囲気と一方的に感じているからであって、ならば逆のまなざしならば、この句の語り手が言うように着ぐるみを着ていない剥き出しの?白目をむいている有様に狂気を感じるとも言えるのかもしれないな。繰り返された白のイメージというのも怖さを助長していて、着ぐるみの中の暗さと着ぐるみの目の小さい穴から差し込んでくる白日のひかりに正気を保っている(と思っていた)語り手も、その狂気みたいなものにじわじわと侵されそうなのもおもしろかった。なんか、「アイアムレジェンド」と「時計じかけのオレンジ」をまぜた感じでおもしろかった。

 なんか冒頭で想定した、闘う準備万端の語り手、というのはあんまり読み取れなくて、もしかして、一句目の強盗に入られた語り手の出落ちというか肩すかしの可笑しさ、ということだったのかな。二三川さんはロジカルでシニカルな感じでたのしい。

暮田真名「GAME」の感想等

ハコモノにならないでいるあいだだけ

 ハコモノって行政の建てた体育館とかホールとか図書館のことで、口にするときってちょっと行政批判やその建築物の造形的なダサさや、使い勝手の悪さや無駄に大きいだけで肝心の利用者が少ないがらんどうのむなしい感じの揶揄とかが含意されると思うのだけれど(こう書いてみて、自分はなんでこんなにすらすらとハコモノへの悪口がいえるんだろう。抑圧されてるのかな。もしかしたら、じぶんのなかの、建物にも適用されるルッキズムと無策無責任の政治家への怨嗟が「ハコモノ」という言葉に反応したからかもしれない)、語り手はそんなふうに思われてる(?)建物にいずれなってしまうまでの束の間について一言もらす、という感じ。建物は基本的にはずっとそのままで、ハコモノは最初からそう言われてしまえばハコモノだけれど、この語り手にとっては、いまはそうでないけれど、いずれハコモノになってしまうとのこと。その予感というか、確信というか、その諦めみたいなものの正体はこの一句だけではわからない。あと、音の感じとカタカナひらがな表記もよくて、「あ」と「い」の音の感じがすき。

ほとぼりという名前のお皿

 このお皿がほしい。作ってほしい。できることなら自分で作りたい。ただ、まだ自分にはその技能がないし、そもそもこの句の著作権もない。できない。歯がゆい。できることなら、餅は餅屋、陶芸家に作ってもらって、熱いものも冷たいものも、お箸では食べにくいものも、食べ物じゃないものもいろいろ盛り付けて食卓や玄関脇のちょっとした小スペースに並べたい、このほとぼりのお皿を。(タイミングよく?陶芸家の根本裕子さんが自身の食器ブランドSANZOKUで今まさに食器のデザイン募集しているし、ほんと、暮田さん、ほとぼりのお皿、もし、万が一あれでしたら、ほんと検討していただけたらうれしいです...「根本裕子って誰よ?」と思った方は、ちょっとでいいのでググってほしいのですけれど、2019年の岡本敏子賞とった気鋭のすごいひとだし最近だとその食器で羊文学とコラボしているし、「羊文学って何よ?」とおもったひとはYoutubeで検索して曲きいてください。あと、今アニメで「平家物語」やっててそれもおすすめなのでみて…)。

トゥエンティー・とばくを・セブン・やめないで・クラブ

 恥ずかしながら告白すると、25歳くらいまで私も?自分は27歳で死ぬに違いないし、なんかの間違いで?27歳越えても30歳までにぜってー死んでやるから、いまのうちにいろいろやっておかないとやばい、って本気で思っていた(酩酊の末の寝ゲロで窒息死するというふうにへんに具体的だったのは、なんだったんだろう本当)。ナルシスティックだったな。やばめのひとには博打はつづけてほしいと思うし、保身せずアカギみたいな雀士になれたらめちゃくちゃすごいけど、倍プッシュはふつうのひとにはできない。経験と努力次第で、もしかしたら浦部みたいにはなれるかもしれないけど、博打は不合理なものらしいし。
 川柳的な話では、5・4・3・5・3で20音を言ってのけるのも、言葉を切り分けてつなぎなおすのも、なかなかできるものではないしすごい。

理想郷まで語い力がついてくる

 ついてくる、というのが掛詞?っぽいとおもった。語り手が理想郷にむかって進んでいく後ろを語彙力が追随してくるというのと、語り手の言葉の知識量のレベルが「理想郷」の段階に近づこうとする、天地人とか六道みたいな感じ?、というのと、ふたつ。【脳内BGM:めざせモスクワ or ガンダーラ】

 どちらかといえば、後者っぽい気がするけれど、そこはなんともいえない。どちらにしても、この語り手は遠いというのをわかったうえで理想郷を目指していて、それにまつわる〈語い力〉を重視しているし、確信もしているみたい。一句目の「ハコモノ」の脱力感とは打って変わって、ただの〈語い〉ではなく、その〈力〉をわりと素朴に志向しているのが、なんとなくジャンプ漫画っぽい感じもして、斜に構えず正対しているのが、あたしにはうらやましく、また、まぶしい。
 語彙力の彙をひらいているのは、〈理想郷〉ですこし重い字づらの印象を後半ですこし軽くするためだろうし、表記での独自の美意識もあるっぽい。

 「GAME」というタイトルの由来はいまいちわからなかった。ただ、一句目の「ハコモノ」の余韻の印象からおもえば、終わりがあるから遊びは楽しいともいえるし、終わりを意識すればいろんなことが、わりかし愛おしく感じたりもする。すべてのものに終わりがあるはずなのに、いつも私(たち?)は健忘症だ。

 渾沌もにんげんの感覚による余計なお世話で穴をあけられちゃって死んじゃうし、「ハコモノ」はそういう予言の一句みたいなものなのかな、とも邪推した。この「こんとん」の実質最初の句が、こういうふうに脱力しながら、意味で残響する感じは、簡単にはできないことだ。
 でも、どうして渾沌は穴をあけられっぱなしだったんだろう、めちゃくちゃ暴力の被害者じゃないか。それ以前にはお客ふたりとそれなりに意思疎通を図っていたっぽいけど、実は言葉は通じても、話は通じない状態だったのかな。渾沌はもしかしたらずっとさみしくて、帝王の友達ができて、やっぱりうれしかったのかな。原典では七日目で死んじゃったけど、この「こんとん」にはにんげんのことばなんかにはやられないで長生きしてほしい。


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