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いつか

去年江古田にともちゃん9さいさんの追悼のライブをみにいったあと(正確には東京から帰ってきてから)急に気持ちが沈み、文字は打つけど公にする気がおきなくて、とりあえずメモアプリにそれこそしょうもないとりとめないメモが沢山あるから、とりあえずそれを断捨離しようと努めて、毎晩メモを消したり増やしたりして、吐き出したい気持ちはあるのに毎晩毎晩引っ込めてばかりいた。私の人生に、もう何かがあるとは思わないのだけど、ただいくつかの引用と、自分の気持ちに沿って書いていきたい。この文章自体も、だいぶ前に書いたものをくっつけて繋げたもので、なにか一本の道筋がついているような読み物でもない、ただ長いだけの文章だ。引用元はできれば最後においておきたい。

>書かなくなった人たちのことをたまにぼんやりと思い出したりもしますが、基本的にドライなのか、「彼らはウェブ上で発表しなくてもいい状況になったんだろうなあ」って思うだけです。

投稿間隔は、開けば開くほどリア充な気がする。私だけの感覚かもだが。ごく稀に投稿すると、なんだかニキニキに込めている感じがするが、しょっちゅう書いていると、執着や承認欲求がエグいなと思われたり、薄いなあと思われそうな気がする。

おっさんが自身を毎日尊く思うコストというのは、そこそこするものだと思う。かくいう私もおっさんなので、自分を尊く思うコストにうんざりしてしまい、今はもう真夜中に城跡の観光望遠鏡で家並みを覗くように、遠慮がちに自分を見なければならない。性自認のインドアフィッシュ解き放ったり、ビバ肉纏ったりウィッグ被ったりして忙しいんだ。死にてえんだ。

おもえば15歳ぐらいから死にたみの常時接続だった。もう今は死のうと思わない。今更死んでも「えっ」って感じが凄いするからだ。通奏低音として死にたいのは変わらないが、もういけるとこまでいったほうが逆に早い気もするのだ。

以前より戦後が近く感じるようになった。昔は生まれた歳から延びた人生の棒を起こして反対側(過去)に向けて ぱたん、と倒しても、1970年代あたりだったのだが、40年近く生きた今は、1945年を越えてしまうほどになった。そう考えると生まれた1980年が、戦後から「たったの35年」しか経っていないことに、何だか放射能や暴力性すら微かに、埃のように帯びて身に纏ってやってきたような気にもなってくるのだ。

誰も使っていない観光望遠鏡で、おっさんを遠くから見ると、比較的低コストで尊く思えるのは内緒だ。ずっと覗いていると、空から大きな水蜘蛛が降りてくる。水蜘蛛は、お腹につけていた大きなあぶくを足で蹴り離して、おっさんの禿げた頭にかぶせてくれる。空気の中の空気の泡、主成分のよく分からない、謎の泡。泡を被ると景色がうるみ、自分が泣いてるような錯覚に陥る。あくびをして残照をみたときのようだ。引きずられて少しだけ悲しくなる。この、潜水帽のような泡を被りながら、空気ではない何かを呼吸しながら、おっさんは確かに、なんとか生活している。

じっさい生活していて、特に人生が充実していて机に向かう時間がないから書けていないというわけでもなく、ただ単に疲れたり、躊躇したり、考えたりしているうちに寝てしまい、何もかも忘れてしまう。何もせず、叶わず、悉く未達で、はっきり言ってなにひとつ充実してなんかいない。すこし腎臓が痛かったり、数独をしたり。急に数独のレベルが上がると投げ出したり。仕事から帰ってきて、ソファにねころんでYoutubeでダイアンをみていたら23時をまわっていたりして。

ちいさい頃、強制スクロール面の壁を駆け上がれずに、画面の端とブロックに挟まれてトゥルル!となったところで、コントローラーごとファミコンを引っ張ったら、画面がバグッてフリーズしたまま、ぷーーーーーっと鳴ったままの精神状態で、この歳になるまで生きてきた気がする。

あたしンちの著者紹介のところに、毎回けらえいこが「ボーバク」とした少女時代を過ごす、と書いているのをみて、俺もボーバクだと思ってたが、じつは俺は「ボーバク」じゃなくてぷーーーーーだったんじゃないか。リセットボタンを押さずに、ときどきゲームの空が、マリオの足のかどっこのパーツみたいなやつに塗り替わったりするのを、やれ変化だやれ成長だと言いながら生きてきたに過ぎなかった。

ここいらでもうほんと、ノーフィニッシュでノーマネーです。私はインターネットから人生に還れなかった。引き潮のとき、砂に深く突き刺さった黒い流木にひっかかって、海に還れなかった藻屑か、コンビニのレジ袋だった。なにもかもひた隠しにして、あえてタイミングや距離をとったり、充実しているふりをして、ちゃんと海に戻れてるかのように装った。人生に戻れた人の生活リズムを打つことに疲れた。もうあとは好きにしたい。

>情報の海に溺れそうになったらとりあえず浜辺に上がるのがよいでしょう。でも、浜辺に上がった人がもし、私が適応できなかった海は虚妄であると吹聴するなら、その人は残念ながら、進化に取り残された悲しい嘘つきです。真実の在りかは、そう簡単に示せるものではないし、そもそもあるかどうかさえ人により考えが違います。

まあ、少し器用に海を泳げたくらいで海の全てを語る憎むべき嘘つきは私も大嫌いです。
---2015/08/16 19:27追記---

付け加えるなら浜辺に上がる人を侮辱する人も大嫌いです。



>宛名。しかし宛名のない書簡を出したがる者は、基本的にはその疎外状況をあらわにしてしまうだろう。自分のしるすものの届くべき場所が、漠然とした希望領域にあることをそれは意味するだろうが、かえってこのことは、みずからが希望領域にいない点の逆証ともなるためだ。

アカウント、とるのは好きで、Twitterでもnoteでも、しょっちゅうちょこちょこ見に行って、テキストボックスに書いてみては、ボタンだけが押せずに、メモアプリにすべて貼り付けて、ひっこめてしまう。気後れしてしまう。なんか、わたし、既に入りからまちがっているのかな、と思う。うんちしながら「人生が、壊れとんねん!」と、叫んでるていの、抑えぎみのつぶやきみたいなやつをよく"絶叫"している。

希望領域にいない自分とか、疎外状況というのは、つけこまれるセキュリティホールをつけこまれすぎたせいで、ものごととの距離を最大望遠でとらざるを得ない状況であって、インターネットというのは初期状態でそうなってるから、私みたいな人に親和性があるのかもしれない。

それにインターネットは情報伝達の速さが売りである。サラリーマンにとっては業余の時間で、とっくの昔に諦めたようなものごとを、もう一度インターネット上で興すためのフロンティアにみえたかもしれない。サーバーを借りて、率先して場をつくり、そこに夢も希望も名前もない若者がぞろぞろとやってきて、詩を書いたのかもしれない。

あの頃は生きにくかった。おじさんやおばさんが「私も人見知りだから!」とハキハキ喋っているのが信じられなかったが、今は「そういうことか」と思える。生きにくさも慣れるもので、死にたみの常時接続生活も慣れてしまった。

>普通書けなくなるというときは、ことばを忘れてしまったというわけではないのだ。書けなくなるというのは、「表現としてのことばが書けなくなる」ということである。「表現として」、あるいは「作品として」何をどう書けばよいかわからないということである。

>書けなくても、「書きたい」という気持ちはなくならない。しかし、書けなくなったとき、何とかして書き続ける方策を求め続けるか、また書かないでそのままになってしまうか、ということの間には大きな差がある。


実家に帰ってすることがなくなると、詩の投稿サイトにログインする。ライフステージが歯止めにならなかったうえに、ものにもならないような「書き」は、いったいどこでどうやって終わるのだろうか。表現媒体の河口にも辿り着かず、表現水準のクラスタ移動もないまま、忙しさや衰えがそれと気づかず終止符をうつのだろうか。フィットネスや脳トレみたく、なんとなくやらなくなるのだろうか。休みの日に湯船つかりながらYoutubeをずっとみて、なんとなくあがるような感じで、書くことからも遠のいてしまうのか。

ログインするということはひとりになったということだ。ログインするときはひとりになったことを思い出したときだ。あー、ひとりだなーと思ったとき、記憶の奥底から浮かんでくる。ひとりだから書いているのだろうか。ひとりじゃなくなったら書かなくなるのだろうか。ひとりになれなくなれなさそうだから、書けすぎてしまうのだろうか。書けすぎてしまうから、逆に書いてないようなふりをしてしまっている、単なるむっつりなのだろうか。

公開しなければ、書いてはいるけれども傍目にはまったく書いていないようにみえる。それはそれで「発表しなくてもいい状況」っぽいから、いいような気もする。抑制の効いた、訓練されたF領域のおっさんだ。でもさ、ただ希望領域にいないまま、宛名のない書簡だけを差し止めてしまったところでさ、叫ばないし迷惑もかけない、他者との相互作用も引き起こさない、クラスタも移動しない、なんか最短ルートでおとなしく死ににいってるのは、なんだかよろしくない気がする。時間はあくし、生きてる以上、そこにはなにかしら流れ込んではくるのだろうけれども、ほんとうにそれでいいんだろうか。ぷーーーーの人のぷーーーーを聞きたいっていう願望に押しつぶされたい。

ネットというのは書かないことで羨ましがらせるメディアだと私はおもう。現フォで見慣れない名前があって、その人の作品リストが今作と前作まで1年ぐらい期間があいていると「ワイルドだなぁ」と憧れてしまう。きっとこの人は1年のあいだにいろいろあったのだなぁ、とドラマを感じる。

ネットというのは擬似的にでも「書くことで関係を切り拓く自分」を叶えてくれる気もする。ただ書くことでしか関係をつくれない(身を立てることができない)自分を一時的にでも装える。それ自体は否定しない。してはいけない気がする。でも、あんまりそこに無自覚に依りすぎると、アイデンティティかなにかが煮崩れてしまうこともある気がする。私たちがキーを叩いているだけの存在であることを忘れてしまう前に、関係性によって繋留されなければならない人もいるのだ。

ネットは復活パターンを増やした。昔ならけっこうな人が詰んでいたところだ。部屋で悶々とするしかなかった。部屋で悶々とお先ハゲさせていただきますと言うしかなかった。とりあえず思考だけは外に出せるようになったし、取り込めるようにもなった。ほやみたいに、貝みたいに、すー、さー、とプランクトンを漉して食べそうな生きものみたいに、言葉や音や動画をあげてみんなにみてもらえるようになった。昔は電話回線でRealPlayerの横120×縦80ぐらい(80×60だったか?)のざりっざりの動画みてたのとは、えらい違いですね。いい時代ですね。しみじみ

もう一方で、書かなくなることで、書くことに費やしていた時間がより現実的なものへと置換され、書くことを支えていた周囲の負担(肉体的・経済的)も本来の比率に戻るだろうという予測のもと「現実にかえれ!」と啓蒙する人もいる。そういう人は、才能とか、採算性とか、芽が出るか出ないかでしか、ものごとを捉えていないような気もするし、また逆に、そんなふうに言われてしまうような人も脇が甘いというか、言われるまえに、もう少し健全な時間のつかいみちやコミュニケーションのとり方があっただろう、という気もするし、まるっきりかすってないこともないだろう。ただまあもっと取り組むべき問題があるだろうと言われたら「はい…」っていう気持ちは常にある。いつも斜めに向いて、ミラーシールドで90度に跳ね返して「ところで、何か仰いましたか?」みたいな問題があり、脇の甘さというのは言語の足場を組むのが下手というか、放った言葉の二三手先で足場が崩れている事に気づかずにポッと話しちゃうことがあって、ここは親に固めておいてもらうところなんじゃないかっていう理不尽さに下唇を噛みすぎて、未だに誰も許せない気がする。


>ネット詩が時と場所を限定された刹那の産物だから。それは一閃の光芒のように流れ去って忘れられる。アーカイブとして放置しておいてもやがてサイトの閉鎖やサービスの終了で消滅する。それでよい。それゆえにこそ自由で潔い祝祭の場なのだ。

>文章が煌めくネット詩人は沢山いたがみんなテキストと一緒にアーカイブの海に沈んでいってしまった。記憶に残るのは名前と断片の言葉の漂流物。

みんながもう「消えてしまった」ように感じるのはなぜだろうか?っていうか、そもそもまず、見えていたのだろうか。みんな引き波で帰っていった。感覚的に寂れたとおもったり、忙しかったりした、そのほとぼりがさめたあとに戻ってみても、嘗て感じたほどの情熱を感じとれなくなっていたり。

それぞれの事情で離れていって、それぞれの話がある程度いっせーので見えていたのも、結局、始まったばかりだったからなのだろうか。始まったばかりだったから特濃の、濃い〜のがいたってだけなのだろうか。今は河口からだだっぴろい夜の海を眺めているだけなのだろうか。

始まりにはいつもガチガチの、のっぴきならない側面と、祝祭の側面とが常にあって、のど自慢で鬼束ちひろの月光を歌っても親族の横断幕があって、出演者全員が揺れていてほしいようなところがある。先鋭化した芸術な人と、ふつうにすりへって消費しきってしまった人の詩が一緒にあっても別に困らないというか、互助でも自助でもアートでもセラピーだろうが、なんでもいいじゃないかという、サイトポリシーで棲み分けて居心地いいところに棲めばいいじゃないかともおもう。

現フォのはみだし情報にみつべえさんの詩集が出たと書かれてて、検索したら本人のTwitterで古本屋に平積みされてるとあったのでさっそく買ってきました。帯に「ネット詩」へのオマージュと書かれていて、俺得でしかない。索引付きの本格的なやつだ。なんかこう、ぱらぱらめくって目にとまるのを読んで、さらにその前後をよんでみたり、索引でいってみたり、えいやで開いてみたり、いろいろできます。なんか青春っぽいのがよかったな。

みつべえさんという名前をみると、わたしの記憶のひきだしには山田せばすちゃんさん…仲程さん…といったハンドルネームとならんでいる。なんというか、社会人をしている、すこしおとなな詩人といったイメージのひきだしにあった。今でいうと、はだいろさんや湯煙さんなんかもそこに加わっても良いのかもしれない。なんとなく生活基盤というか、くらしが安定しているようにおもえる。かってな想像ですが。

いやしかし祝祭って言葉はいいですね。ちょっとはずれるかもしれないが、のど自慢で鬼束ちひろの月光を歌っても横断幕が出るような、サッチャフィーのその横で参加者全員が揺れながらくらきょく(暗曲)用のしっとりめ手拍子してくれるような、制度があって、そこであえてそれをするかっていうタイプの祝祭で、おっさんバンド的な、距離を感じさせないというよりは距離を自覚する人ほどその自覚の度合いで仲良くなれていったかもしれない。そのときはちゃんとおっさんバンド的なものを脱いでギラギラと話せたのかもしれない。

一番倒錯したなと感じるのは「時と場所を限定された刹那の産物」の箇所で、これは始まったとき、真逆の感覚だったな。インターネットは地下と辺境しかないような茫漠とした空間であって、しかも永遠に有用なデータがぴっちりとずれないジェンガみたくどしどし淘汰・蓄積・捨象されてく場だと感じられていたのに、いつのまにか真逆の印象を抱いてしまうまでになった。

旧劇エヴァンゲリオンで、サードインパクトが始まり、ゼーレが召され始めて、通信用のモノリスが次々消失していくシーンがある。インターネットでの出会いと別れはあれに近いものがある。みつべえさんのあとがきの「それでよい。」のキールロレンツ感に引っ張られた気もするが…。いや、ほんと、それでよいとしかおもえない。去るものは(原理的に)追えないのだ。そういうものだったんだ、ということ。最初のほうの、わりかしティム・バーナーズ・リー的な、モヒカン族的なものと、SF、読書好きと若者と、音楽、宮沢賢治とプラトゥリ的なものとが混じり合った変な汽水域はもう出来ないし、それごと流星群でいってしまった。もののけ姫のデイダラボッチみたいに、山の彼方に吹っ飛んでしまった。

そういやインターネットは一枚一枚奥に分け入っていく感覚があったが、今は1→2、1→2と結果を得る場所になってしまった。あるいはすぐに行為が来るようになった。タイムラインは嗜癖になって、行為にはならない。ただ、自分がしていることなのかがわかりにくくなった。

くにおくんの熱血大運動会みたいに、人の家の茶の間を抜けてまた次の茶の間へ、というズケズケした感覚がなくなって”お店”に招き入れられ、いつのまにか受付で椅子に座ってしまっている。バックヤードが見えなくなった。阿部寛のホームページ的なものが見えづらくなり、人単位ではなく記事単位になり、そのページ自体になんともいえないうつろいやすさや愛のなさをみるようになった。サマリーのところで枠から文字がはみ出してるとか。そんな愛のない記事を素早く繰って、目当ての箇所だけかいつまんで読むようになった。流し込まれた拙速なコンテンツによって崩れたバランスなど微々たる誤差であって、費用対効果を考えるとそんなどうでもいいことに拘う必要はないのだ。

逆にこういうとこで詩を書いてたってことが笑い話になるのかもしれない。今はもうここは示し合せの場になってフィジカルでやるほうがまだ生きてる気がする。あたらしいのだと思う。

あたらしく書きつける場所と読者を確かにあのときはてにいれたっていう感覚があって、今もあるのだが、峻別のしかたがへたになって、峻別のしかたに受け容れを適用し、受け容れかたに峻別を適用するようなかんじになってきた。で、本人はその逆だとおもってるという… 台風のホームレスうけいれにしてもそうだが、なんか逆だなあと思うことが増えてきた。あたらしい生き方もしてみたいが、WEBに載せるパワーがあまり残ってない。



>詩はたくさんの「わたし」からうまれて、たくさんの「わたし」にたどりつけばいい。
>わたしが言う「嫌い」って言葉は、「嫌い」だけでできてるわけじゃない。
>詩はもっとその「だけじゃない」を許してくれる。


>ぶちまけることが、ありていになるんだってことの同意じゃない。偉大である事は選べるし、形式たるもその通りだと思うよ。桂冠詩人を見上げるような事じゃなくて、君が勅撰であって、君自身が語る番なんだから。

いまだによくわからないが、昔読んだこれは励ましてくれている気がする。



>‘批評によって他人の詩作に介入し、
>自分と他人の共同域を樹立すること。
>これができず自分の詩作、
>そしてそれに伴う野心や慨嘆ばかりを日記化する者が、
>見当ちがいの不安定な詩作を繰り返し、
>あるいは自己保全のために自己模倣を反復してゆく。
>この部分こそをネット詩は詩壇から見透かされている。

(ネット詩も孤立するか 阿部嘉昭ブログ)
http://abecasio.blog108.fc2.com/blog-date-200908.html


>たとえばネットで詩の雑誌を作ったりするでしょ。ネットは公開の場所として成り立つのかというようなこともやっぱり考えたりするんです。詩の作品それ自体の手続きとちょっと違うけど、この公開の手続きの問題も大きいと思うんです。ネットで詩を公開することに関しては僕はものすごく懐疑的ですね。これは公開の場所として成り立っていない。いくつか理由はあるけども、一つは公開の場所には「境界」がなければならない。ここは出さない、ここから出すという「境界」がちゃんとできてないと公開というのは成り立たない。ふつうは編集者がいて出版社があって、それが手続きの場所になって印刷物として出てくる。ネットの空間にはそういう敷居がなくて、書き手一人の判断しかないから、暗い部分と明るい部分の境目がない。それと同じことなんだけど、ネットというのは名前のアイデンティティを本質的に作れない空間ですね。あそこでもしアイデンティティを作っちゃったら利用されるから出さない。匿名性がつねに侵入してくるわけです。したがって名前によって責任がとれない。責任を問えない。だからネットの空間は全体として暗がりになっていて、どう考えても公開の場、公的な場にならないと僕は思う。ネットは一つの例ですが、一般的に詩の言葉を公開するときの手続きの問題は、これからかなりいろんなところでシビアになると思う。(思潮社『詩的間伐―対話2002‐2009』稲川 方人,瀬尾 育生 p115)


>◇詩サイト考(5)
>たとえば、Web群のpoemをみて、
>(日記形式で)つぶやいているような、詩だといえるかどうか
>poeticalな匂いはあるが、文章の断片にすぎないのではないか
>という「作品」(a)から、いかにも「詩(現代詩)」だというみかけの
>バリバリの「作品」(z)までを一線において──、

> ・a ・b ・c ・d ・e .... ・u ・v ・w ・x ・y ・z

>と、仮に並べますと、
>この、a と z に着目して、Web上の「詩またはpoem」を
>論評したり、考察したりする際に、

> ・abcdefg ・hijklmn ... |     | ... ・x ・y ・z

>のように、a の側、z の側に本来は中間に位置すべき作品を寄せて
>その間に、断絶的な仕切りを付けていないか(意識操作→情報操作)、
>という疑念があるわけです。

>(Clubの) Bookmarks(1)にリストされている約4,000近い Webサイトに
>ある多数の「詩/poem」を見てくると、a に近い作品だけでなく、
>言語意識・言語表現・詩法等も、もっと多彩多様であり、
>いわゆる「ネット詩」という視点ではとても括りきれない。
>ひいては「ネット詩」対「(詩壇的)現代詩」などという二極に分けて
>考えることがなにほどの有効性をもっているかはなはだ疑わしい。
>疑わしいどころか、誤謬といってよいのではないかと考えています。

http://web.archive.org/web/20080325190132/http://ipsenon.at.webry.info/200505/article_14.html


>わたしはネット詩を詳しく知らないが(というのも、パソコンのディスプレイ画面を通して文字を読むということにいまだ馴れず違和感をおぼえる者なので)、けれどもここ数年わたしが携わっている『詩学』誌主催のワークショップにやってくる人のなかに多く、ネットの詩を読んだりそこに発表したりしているという人たちがおり、彼らの大半にはネットが詩を書くきっかけになったという。  ネット詩は、当時のサークル詩よりもはるかに社会性に乏しくいっそう「素朴なもの、具体的なもの、日常的なもの」を重視するような形で展開しているようだ。しかしながら次の、近藤東という人の文章などは、あたかも現代のネット詩のことのようである。  「戦後の詩壇の現象の一つとして『もう一つの詩壇』なるものがある。元来、詩壇というコトバが許されるならば、それは商業ジャアナリズムに認められた詩人群の行動と、数十の詩誌と、投書家に代表される一種のアトモスフェアであったが、現在それとは全然無関係に、一群の詩人とそれを中心とするサークルが存在するのである。詩壇の多くはそれに少しも気づこうとしないし、『もう一つの詩壇』でも問題にしていない。ただ商業ジャアナリズムがこれに無関心であることはそれ自体において怠慢といわれねばならぬ。というのは、この『もう一つの詩壇』にはジャアナリズムのそれに劣らない強力な読者層--詩においては読者がすなわち作家である場合が多いが--が含まれているからである。彼らは『国鉄労働者詩集』『京浜詩集』『幹線』『勤労者詩選集』等のアンソロジイを持ち、この世界でのチャンピオンは星隆平であり、岡亮太郎であり、島田紫郎であり、山田今次であり、ヒロキタモツである」(『詩学』50年1月号)。  また私は、ここ数年の間に様ざまな朗読会に参加するようになり、朗読詩界隈とでもいった場所に出入りするようになったが、そこにもやはり既成の商業詩壇とは一線を画するものがあるようだった。

蘭の会 お手紙 究極Q太郎さんより
http://www.os.rim.or.jp/~orchid/otegami0501_qtaro.html


>あと書かなくなったことには別段何も思わないのだけど、書いてきたものは勝手が違ってて、印象が強いものはよく覚えてたりします。でも中には覚えられてた り、残っていることが辛い人もいるんだろうなあっていうのも事実なんだよね。たとえば自分の壮絶に昔の詩が誰かの手元にあったりしたら舌を噛み切って死に たくなるけれど、私の気恥ずかしさと、彼らの辛さは次元がまったく違うものだと思う。私は死にたくはなっても図太いので死なないけれど、彼らは本当に心底 しんどいのだろうなあと。詩の世界は凄く狭いと思うのだけれど、各々の中での役割が違うみたいで面白い。面白いよねえ、ほんとに。口に出しづらい趣味だけ ども・・・!でも温度差でしんどい思いをさせるのは不本意なので、気をつけたいです。こちらが良かれと思ってても相手にとってはしんどいって、とても恐ろ しいな。

コペンハーゲンの舌にまかれて
https://deraroll.hatenadiary.org/entry/20061023/1161541283

引用の要件をみたせるか不安だが、言いたいのは「わかる」ということだけ。なんだかすべて同じことを別々の角度から照らしているような気がして、わかるような。

ポエティカイプセノンのネット詩考(a〜zの話)は、当時あった「紙媒体」側からの「ネット詩」批判に対応しているようにおもう。まず玉石混淆の玉をみたのか、という疑いがまず一点と、あくまでその"玉"や"石"は見かけ上「現代詩のよう」であるとか、日常をうたった抒情詩であるとかいう表層には左右されないのであって、うまいけどどこかでみたような詩だとかいうユニークさ・希少性、詩の最新型(なんてものがあるのかしらないが)に精通あるいは吸収しているか(くぐりぬけているか)どうかがなんとなく感じ取れるとか、あるいはそういう「自分好みの詩」がごろごろする場所を知っているか、知る努力(というほどでもない)をしたのかという疑いがある。この努力というのは換言すると、いい詩が見つかる確率を上げるように振る舞ったか(よくない詩を見ないようにしたか)というふうにも言える。玉石混淆というのは訪れた場所のすべて(といってもとても短い時間帯に投稿された詩群)を先入観をもたずに読み上げたときの感想で、ネット側からは「そりゃそうだろう」とか「そういうものだろう」という反応しかでてこない。
見る人がそれぞれ選ぶのであって、それぞれが見たいように見て撰集をつくるように読んでいくというネット詩の世界を、ある意味客観的に評価すると"ネット詩も孤立するか"や"詩的間伐"のようになる。客観的というのは読んだ範囲においてであり、ネット全体に対しては極めて主観的で視野狭窄な評価となる。なれてくるとその逆になり、そのぶん無意識に見ないようにしている詩が増え、全体に対しては客観的な評価になる。サンプル数や試行回数の量によって、読み手のクラスタが移動してa-zの好みや巧拙、形式や規定や居心地によって定着する。もっとシンプルに言えばAmazonで梱包が凹んでいたという理由で商品の評価を星1つにする人と似た間違いをしている。
誰しもがなにかベクトルや目標を「目指している」かのような錯覚を呼び起こす。そのへんの目指すとか、記憶される、詩の読まれる期待のうすさに忘れ去られる軽さとか露悪的を混ぜてみるような方向とはまったく別に、切実に書いても、やはり切実に忘れ去られたいという時限的な詩の「持ち方」もあるということも理解されなければならない。それぞれの見え方で捕捉するにはネット詩は広すぎるし、属性や思想、タイミングが揃うということがない。インターネットの初期(1996〜)にはある程度濃いメンバーが揃うことがあったかもしれないが、誰でもできる、できるという意識すらなくなった現在において、その捕捉、なにかの軸で捉え直すことはますます困難になっている。

阿部嘉昭さんの書いてる「詩壇」の見透かしというのは、もう少し射程が広いようにおもえる。ちょうど阿部さんの言う不安定な詩作あるいは詩壇の見透かしが、瀬尾さんのネットではアイデンティティがつくれないとか、責任が問えないとかいう文言に現れているともいえる。自己規定が曖昧なまま詩作を始めることをどう捉えるか。

ネットで詩を書くひとからすれば「いいものはいい」というだけのことに、なぜ「手続き」とか「責任」がつきまとうのかさっぱりわからないという部分がある。不安定でも不健康でも、続かなくても、いい作品が残ればすばらしいのである。

そういう意味では「手続き」を重んじる考え方はある意味では逆に作者そのものに対しての気遣いがあるかのように思えてくる。本当は救えない者に対してもそう言える「無責任さ」をもてないこと(仕組み)を私達はハナからよく知っている。

明るさと暗さでいえば、テレビ的なものとラジオ的なものかもしれない。Youtubeは規約によってテレビ的であって、Twitterはいくらかラジオ的なのかもしれない。

>詩を書いてもそれを読む人のことは知らないし、ぼくが使う言葉に実際は裏付けとしてのものがあるにもかかわらず、違う生き方をしている人にはわからないことになる。それが一つの問題になってくると思いますが、映像の場合は逆なんです。女なら女、会社員なら会社員という抽象的な概念で撮っても、映され出てくるのは誰々というあまりにも具体的なものになってくる。しかし結局それは言葉とか単語に切って、映像は一枚のカットに切っての話で、実際には言葉も映像も切って伝わってはこなくて、ある連続のなかで使われるから、その連続性が問題だというところまではわかっているんです。(現代詩手帖 '68年5月号 P45)

なんだろう、エルエルビーンのトートとかいって、それそのものを頭に浮かばせることの怠慢とでもいうのか、人間をGoogle画像検索化させているようなニュアンスだろうか。例えば道路工事中の車道に組み立て式の金属パイプのガードレールが並んでいて、側面の支えの部分が蛙の形になってたりうさぎになってたりするやつをみんなどう検索するか考えて”蛙 ガードレール“と打ち込んでみると、Googleには表示される。で、これが100%みんなの総意ではないにしろ、ある程度日常思いつく範囲の”あれ”に対する最短イメージなのだろうと考える。もう少しみていくと、あれには
単管バリケードとか、アニマルガードとか、工事用バリケードといった言い方があるが、用途や形状からすると、バリケードというよりかはガードレールに近いように感じられる。(横が)蛙の形になってる工事中のガードレール、という言い方でも伝わるかもしれないし、日常的には工事現場の蛙の(形になっている)ガードレールでも通じそう。でもこの時点で無理筋なのだとおもう。伝わる伝わらない以前に、この程度の操作診断的な言葉遣いであれば小説でじゅうぶんなのであって、詩はそれ以前あるいはその先にある総体的な原風景を、”検索結果”ではないものを存在させなければならないから。つまり「これはこういう名前(正式名称)である」とか「みんなこんなふうに呼んでいる(呼ぶしかない)」とかいった名称では、そのものや、そのものと関わるわたしたちのダイナミズムを根こそぎ剥ぎ取る行為であるようにおもえてならない。

映像は撮った瞬間に証拠になるが、言葉はそれだけで証拠になりにくい。その"暗さ"のなかで不誠実に振る舞い続けた場合、彼の匿名性と、特定までの"確率"をインターネット上の位置関係から把握してしまい、いつまでも使い果たせない猶予のようなものを行使し続けることで、結果的に自分自身を浪費あるいは毀損するようになったり、涵養することなく、水位が回復する前に吐き出してしまうようになること。「不安定な詩作」とは、そういった、出力の安定しない

そう考えると、彼らのは批判ではなく"心配"の仕方のひとつではないかともおもえてくる。目の前のハードルの低い場所に吐き出す前に、しっかりと自分の枠を拵え、水位を上げて高さを乗り越えろという話。報酬系のことなのかもしれない。

しかし半分あたっていて半分はずれているような印象をうけるのが、彼らの批判が当たるのはあくまでネット上の作者のうち"彼らのいる方向を知っている場合に限る"という側面があるからで、この方向(世界があること)を知らないのであれば、それは思惑とは無関係の、無関係ゆえに束縛されたところで詩作をつづけることになる。

インターネットは無限に召喚できること、召喚しかできないこと、召喚にMPを消費しないこと

話がそれてきたが、もうこの紙媒体VSネット詩という構図自体、もともといい大人が持ち込んだプロレスみたいなところがあり、詩を書きながらパソコン通信〜インターネットを嗜んできた人たちがいる時点で、半分ぐらいVSでもなんでもないのはわかってるけれども、やっぱりバコーンと革命をおこしたいのでVSをつけてたふしもある。なんといっても「いいものがあるし」、プロデュース次第ではスターダムにのしあがれる。目論見はうまくいかなかった。結果として、なる人は勝手になっていった。そしてネットはふつうのことになり、インターネットだからという偏見もなく、ボリュームゾーンがネット世代になりはじめた。アイデンティティの表し方も多様化した。ただ瀬尾氏の言うとおり、今現在、あのころのネット詩は非常に紹介しづらいのだ。「薄暗い」「視えない」「責任がとれない/問えない」。ということは、召喚方法が少ないのだ。場→作品→紙(流通にのる)ということと、場が消えると作品ごと消えてしまう状況は少しちがう。勝手に流通の乗せることもできない。つまり「温度差でしんどい思いをさせるのは不本意なので、気をつけたいです。こちらが良かれと思ってても相手にとってはしんどいって、とても恐ろ しい」。ここでの温度差は、読み手と書き手、ではなく書き手と(読み手への)仲介者、と捉えたほうがわかりやすいかもしれない。つまり、そもそも不特定多数へと開かれているはずの公開された詩が、それ以上不特定多数へと拡散されないように、投稿サイトのオリジナルをもとに拡散されるように堰き止めたり、配慮しなければならないし、批評してはいけない場合もあるということだ。そこまでは必要としていない人もいる(いた)ということだ。書けないから残らない人はいいとして、書けるけど残したくない人というのも存在するだろう。阿部さんのいう「見透かされている」点については、ちょっと体育会系のような、体幹を鍛えて安定せよ、というか作品として自立させよ(≒流通させよ)みたいなところ(これは瀬尾さんの言い方にもあるけれども)があって、ネットから始めた人からすると感覚的に最初からそのへんを無意識的に了承して始めてる部分もあるのだ。曖昧な「公開」の感触を、無料お試ししているような、公開する部分を調整して、自分自身に沿った公開の程度や方法を開発していく。いや、ひとりで書いてる時点では気づかないかもしれないが、投稿板に通うようになると意識できるようになるのかもしれない。草原を駆ける馬に対し、パドックに入れと叱っているようなところがある。パドックに入ってからが勝負だよ、というのもわかるし、走っていればいいというのもわかる。ただどっちがいいかは馬にしかわからないし、馬にもわからないのだ。だからネットの人たちはあまり馬には触らないようにしている。最後に室生犀星をおもむろにもってきたのは、a-zのネット詩すべてが幼ない「抒情詩時代」なのかもしれないとおもったからで、ここにあるものをシャンとさせて紙に向けて批判するのも、ネット詩が詩壇に見透かされてるぜ、などと忠告?するのも、作者をなおざりにしてるなーと。現フォにも作者とタイトルがあるが、どこまで「作者」であるか、どこまで「作品」であるか推し量るのはむずかしい。そのへんのグラデーションのことを瀬尾さんは「明るい部分と暗い部分の境界」といい、そこにa-zのあらゆる詩がごった煮になることを阿部さんは「詩壇に見透かされている」と指摘しているのだと思う。インターネット上で読み続けていく(読むといえるほどかわからないが)ことで、境界を見極めるしかないし、そうやって生きていく人はこのルートは使わないし、引っ張り上げてもらおうとか、ここから上に引っ張り上げてくれる何かが垂れているとも思わないか、すぐに気がつくだろう。

詩を紹介するひとはおしなべてへたなひとかなかよくなる能力がなかったひとってことになってくるのかもしれないし、(詩も作者も)ちっともわかっていない、ともいえるかもしれない。詩そのものがわかるたちのものかどうか?は措くとして。

年の瀬に何かまとめて年間の思いを書いておこうと思って、ちとここに書かせてもらいます。


「金石の風景というのがわたしらにとっちゃネットや都市で、原風景というか、言葉の神話の時代で、感傷の老成もあったんじゃないかとおもう。たしかにあった。むしろそれしかなかった。というかそれしか見えなかった。そのあとにも生き続けなきゃならんっていうのは思いもよらないことだった。それは上にあげたようなこと。ネットの特性と収斂のさしかかりのちょうどよいところに消えたと思う。跡形もなく、とはいかなかったが。その後につかう言葉なんかあるわけなく、まして「かたる」わけにもいかなかった。時期を逸したので適切なところにながされたといってもいい。うまくしたもんだなあと感心しているところ。

・ネット詩

ネット詩て言葉について

鈴木志郎康さんを追って詩集を買い集めたり、現代詩手帖の特集号をヤフオク!なんかで落札している。やっとひとりで暮らしはじめて、ものを置けるようになって、10年越しにいろいろ買い集めている。

図書館で借りた現代詩作マニュアル(野村喜和夫著)という本を読んでいると、鈴木志郎康さんの著作として「現代詩の展望」が挙げられていた。Wikipediaには載ってないし、タイトルの規模のでかさからして単著じゃないっぽいよなと思いつつ、いちおう頼んだらやっぱり単著ではなかった。戦後〜1986年までの100編のアンソロジーを挟み、その前後に戦後詩の鼎談やら論考がわらわら並ぶ構成だった。

論考をよんでいると、戦後詩、現代詩とよばれるくくりのようなものがあり、必ずそれらの言葉を使うにあたっての留保やエクスキューズがついてくる。まあだいたいどのへんを区切るかとか、こういうのはほんとは意味ないんだけどね☆みたいな感じのくだりが頻出する。よみながら、ネット詩という言葉の扱い(そもそも扱う人が少ないが…)によく似ているなァと思う。「ここの"戦後詩"を"ネット詩"に変えたら、…いけるんじゃね(なにが?)」と思う。誰か賢い人がやってくれないかなぁ。

出入りの自由だ。もとの生活に戻れる自由だ。だが言葉は残り、口惜しい。無料で、自由で、すばらしい。

このへんにインターネットの初期の未開拓さや若さが交じる。戯れた、という意味では、疑似的にしろ、新しい「道」ができたから。夜、テレホーダイに限定された、大学のパソコンに限定された、時限的にアクセスできる置き手紙のある(だろう)公開私書箱。Yahoo!のロゴのバタ臭さを改めて思い出す。


 *たとえばネットで詩の雑誌を作ったりするでしょ。ネットは公開の場所として成り立つのかというようなこともやっぱり考えたりするんです。詩の作品それ自体の手続きとちょっと違うけど、この公開の手続きの問題も大きいと思うんです。ネットで詩を公開することに関しては僕はものすごく懐疑的ですね。これは公開の場所として成り立っていない。いくつか理由はあるけども、一つは公開の場所には「境界」がなければならない。ここは出さない、ここから出すという「境界」がちゃんとできてないと公開というのは成り立たない。ふつうは編集者がいて出版社があって、それが手続きの場所になって印刷物として出てくる。ネットの空間にはそういう敷居がなくて、書き手一人の判断しかないから、暗い部分と明るい部分の境目がない。それと同じことなんだけど、ネットというのは名前のアイデンティティを本質的に作れない空間ですね。あそこでもしアイデンティティを作っちゃったら利用されるから出さない。匿名性がつねに侵入してくるわけです。したがって名前によって責任がとれない。責任を問えない。だからネットの空間は全体として暗がりになっていて、どう考えても公開の場、公的な場にならないと僕は思う。ネットは一つの例ですが、一般的に詩の言葉を公開するときの手続きの問題は、これからかなりいろんなところでシビアになると思う。(詩的間伐p115)* 

悔しさは、手続きを踏まなかった仕返しなのだろう。おそらくこの文章が出た当初は2ちゃんねる的なものとインターネット全体を混同していると思われたり、詩の巧拙とネットの詩の玉石混交は早合点だ!ちゃんと読め!といった批判がでたのかもしれないが、今となっては、私達はこのアイデンティティを作れない空間(この表現は使いたくないが、引用との整合性のため)を利用して、匿名性によって、日常に還れる安全性を担保しながら詩を書いたし、それによって利用、利用とまではいわないが、無名の肥やしにされた。しかし、私達の関係性自体はかけがえがない。

ネット詩ってなんじゃろかいな。ほとんどがつまらなくて、ほとんどがいとしいみたいな。原理主義的がみれば前者、博愛主義がみれば後者。もちろん私が生き抜こうと思えば待ったなしで後者!…ではあるが、ではあるが。。前者に誉められたいという気持ちも正直ちぃとばかりある。わはは。

食傷気味になるというのはあると思う。ずっとこう、マラソンで同じところで配っているように愛せるか、というより、愛さなくては、というふうになるぐらいなら、一緒に走って、そのグループと一緒に走りながら、その人たちしか視えません、すみませんねという予防線を貼って、見ないようにすることで、原理主義的な部分と博愛主義的な部分を両立させることは可能なのかもしれない。ネットから詩にはいると、人とのぬくもりがかんじられず、合評会がひどく退屈にかんじられたり、愛さなくてはならないといったマスト感情に支配され疲れる部分もでてくる。それは水揚げされたサハギンの宿命…。ネット詩というのは、ネット上にある詩を、都合よく、好きなものを、時間、距離、人間、関係なく読めるところにある。

でも、覚えているものはなんだかんだどれもこれも素晴らしいのばかりだ。どこかのネット詩考に、A、B、C、D…と良い順に並べていくと、かいつまむ場所によって視え方が違ってくるよといったことが書いてあった。昔、ネット詩は便所の落書きばかりだという誰かの発言に憤慨する掲示板をみた記憶があるが、便所の落書きだとおもった人はX、Y、Zのあたりを見てしまったということになる。で、じっさいのところ、その良し悪しでいけば9割ぐらいZだろう。ネットは上質のAだけを提供する場ではなく、均質にAからZまで取り揃えております!という世界でもない。サイトポリシーで入り口を狭くするか、良いものを掲げるかして見やすくするぐらいしかない。良いものの選び方の2パターンで、現代詩フォーラムが全員で選ぶパターン、ぶんごくが誰かが選ぶパターンがある。でも詩って、そういうんじゃないよね。自分で読んで良いなぁとおもったりするものだ。「うまくなる」方向や、「なかった」方向に「寄せていく」場合は有効なのかもしれないが。それが本来の自分の資質っていうか、自分の弾み方や吐露と整合しないなら、それはそれで意味ないじゃん、とか思ってしまう。むしろそれなら現実でカルチャーとして、コミュニケーションツールとして、詩をてほどきしてもらうほうが早道だ。逆にいうと、そういう感じだからネット詩じたいがうまくなるとか寄せるという考え方自体に馴染まない、本来の資質をもった人がきて書いたほうが早いということになる。簡単にいえば原理主義的になりやすいということだと思う。

詩というものの発動条件が思春期にあるとすれば、それはイルカの群れが泳ぎながら跳ねるみたいに布を縫うようにピークを描いて、それぞれのアドレッセンスのうねりみたいなものが時差で発現しまくって(は消えて)いる空間なんじゃないか、それを時差で眺めつつ、年齢がちかしい場合や、シンパシーの度合いに依って、それぞれが青春群像やら成年群像をやらかしては現実に消え(たり、執着したりし)ていく。時間さえあれば、大抵の場合、いつでも戻ってこられる。現代詩フォーラムなんか、お盆休みの実家の二階、元自分の部屋でなんとなく思い出して見た、みたいな人もけっこういるのではないか。そういう人にとっては、もうネット詩は思い出かもしれない。人によっては日々生きづらい社会に潜るための潜水帽。ネットの卑近さのせいで、参入と離脱の感覚も、もうかなり薄れてしまった気がする。現代詩フォーラムや文学極道のレガシーさがむしろネット詩という言葉を裏打ちしたり、思い起こさせたりする装置になっていて、ふだん無いとおもってるのに、そこにいるとだんだんと「ある!」と錯覚してしまう部分もあるのかもしれない。ああいう掲示板型であり、参加離脱の表明ができることで、かろうじてその縫い目のウラオモテを生きている(潜ったり、浮上している)感覚をこちらが感じ取れるし、結局のところ、その繰り返しをぼんやりと行いながら、同時に見つづけていることが「ネット詩」なのだと思う。基本は輻輳なのだろう。生活の輻輳ではなく、生活「以外」に対する輻輳。輻輳した時代にインターネット上で詩を書いた人とのシンパシーの強弱で形作られているそれぞれの定義について、まいどまいどエクスキューズを入れなければならないほど、まぁ戦後詩とか現代詩とかいう言葉ほどはやいやい言われない言葉、つまり好き好きに使われるのがネット詩という言葉なんじゃないか。

>このやうな幼ない「抒情詩時代」が再び私にやつて来るものでもなく、また、それを再び求めることも出来ないことを知つてゐる。人間にはきつと此「美しい抒情詩」を愛する時代があるやうに、だれしも通る道であるやうに

アカデミックな部分(あるいは単におっさんと言い換えてもいいかもしれない)では少し先行するのかもだが、1998年あたりでネットがかなりガッと普及し始めた。ここらへんで若者もネットに流入し始めた。そこで詩についても青春群像が始まりはじめた。ADSLや光などの定額制で大容量のネットはまだまだ先の話で、YahooBBが街でモデムを配りまくり始めるのももうちょっと先の話。若者はありあまるバイタリティでテレホーダイ。ざっくりいえばネットの普及と若者のふわっとした時間がマッチしてネット詩がボワッとなって、さっきでてきたおっさんが用意しておいてくれた「場」で書いてボロクソいわれてなんでやねんみたいな感じでガッツが湧いてうまくなったりした。あと素地として別分野の人がきて書いていくという感じのこともあった。分野のボーダーであり、生きるのが大変なかんじの人たちだ。系でいえば、感覚的で才能ある大変なかんじの人たちと、悩むという意味で大変なかんじの人たちがいて、私はどちらかといえば後者だが、前者に憧れていた。

昼と夜で布を縫うように繰り返していたのは、テレホーダイとひきこもりという私の環境的な部分が大きいのかもしれない。ひきこもりだがテレホーダイの時間帯は守っていたので、現実とネット、ROMる、窃視する自分というところでどうやったら外に出られるのだろうとおもいながらネット詩を読んでいた。ネット詩のBBSでは才能ある若い誰かに語る師匠筋の人の発言を、才能ある若い誰かの後ろにこっそり立って聞くようなことが可能で、そういう場所に行きたいなあと思いながら生きていた気がする。結局なぜか孤独な底辺会社員としてわけのわからないことを書きまくることになっているのだが、まあ行き着くところに行き着いたなあとしか思いようがない。

そういう意味では最終的にどこかには行き着く(ということを信じたい。)みんな忙しくなってしまう。詩を人生に絡めようとすると、もうそれはそうせざるを得ない人か、仕事に寄せていくか、業余の趣味になってしまうか。そういう意味では現代詩フォーラムのことをふっと思い出してさっと書いて帰ってく感じはとても理にかなっていて、ほんとうにたまにカジュアルにオケイジョナルに詩を書いているってかんじだ。それでいてポエムじゃないってかんじ。鋼の錬金術師の師匠みたいなイメージ。ネット詩は境界をちゃんとできてないという指摘を瀬尾育生さんがしてらして、概ね同意だが、それはそれの良さがあるってことだろう。


これは当時ネット詩VS紙媒体みたいなところでけっこうやり玉に挙げられてたのだと思うのだが、私は原文にあたったことがなくて、10年越しで読んでみると匿名性のところが2ちゃんねる的な勘違い以外はそこそこ合ってるんじゃないかと思う。合ってるというより、「見ているところがちがいすぎて、話ができないよね」っていう意味で合点がいきますといった程度ですが。同じ紙の本を読んでいるときはまだ話がもうちょっと合うし、誰々の何々ではあるが、ネット詩の場合、どこどこの誰々の何々になるのだが、そのどこどこは実際の場所ではないみたいなところで齟齬が生じているのかなと思う。わたしがネット詩のことを書こうとして、ネットのことを「空間」と言おうとしてウッと言葉に詰まるのは、実際は機械的にソートされた置き手紙が表示されていく「板」なのに、あのころはネットに「たどりついた」気がしていた。自由なところで発信できるのだな(何を?)という部分で、そのへんから詩にはいることもできたりした。

ネット詩といった場合、板の部分と、ネットであるところの紐の部分がある。昔ネット詩と覇権を争った(と勝手に私がおもってるだけの)WEB詩という言い方も、どっちに重きを置くかでネット詩=紐のほうまであんこが詰まってる、WEB詩=表示画面のほうにあんこが詰まってる、ワイヤード=紐の中の光のような電気のようなものの煌めきのすばしっこさみたいなものに重きを置いている、なんかそんな違いがあるように思う。ネット詩が残ったのは語感の問題もあるだろうが、

ネット詩→現代詩

知る順序として、いきなり本屋や図書館で詩集を握るというのはリスクが高いというのか、抵抗のある行為であり、本来的にこっそりできるネットのほうが詩にアクセスしやすいのでそっから入るとネット詩が先で、紙があとで、という人もいっぱいでてくる。そうなってくると魚は開きの状態で泳いでいる的な、おしっこが青くない的な側面がでてくる反面、本当に魚を開きで泳がせられる人や、青いおしっこをさせる人がでてくるかもしれないし、どうやったら青いおしっこを出させられるかという部分

ただもう今ネットは同好の士と集うためのツールであって、ネットは表現媒体として選ばれず、フィジカルなものに移行しつつあるようにおもう。個々人の宣伝や告知が適切に拡散され、行き届くようになり、インターネット上(データ上)でしか集まれない困難さ(愉しみ)はなくなったか。疲れてしまって、もう自分では見つけられないような気がしている。

引用元
コペンハーゲンの舌に巻かれて
現代詩フォーラム
平成ボーダー論
極詩的現代詩入門
そろもん詩抄
5or6さんのTwitter
POETICA IPSENON
蘭の会
現代詩手帖
めろめろ22号
おぼこ板

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