見出し画像

土禁だけど、いいやつ

この人はこっちの気持ちに土足で入ろうとする人だ、そう感じる時がある。相手は多分悪気はない。入ろうとすらしていない、私が受け入れないのだ。


なんとなくその勢いに、その自分を持っている感じに、引っ張られてしまいそうだから。大事にしているものを平気で素手で触られそうな、そんな怖さが壁を作る。相手に悪気がないからやっかいだ。


前に「絆」って言葉に抱いた恐ろしさを書いた。

普段誰も見ようともしなかったことを、絆と言う言葉を振りかざして土足で上がって、頑張ろう、つながろう、と呼びかける。「何かをできている」気になってしまう。それよりも誰もが日頃から支え合うべきは、その時被災者となった人たちではなく(勿論これも大事)、そもそも日々関わる人たちではないかと思う。

今日は「お節介」について考える時間があった。お節介ってアンテナが高くないとできない能力だと思う。私はアンテナの方向が全方位でないので、取り越し苦労が嫌だからと「求められるまで動かない」策を取って生きてきた。感じてはいる。でも動かない。動くほどパワーがないからでもある。

プライバシーを重んじるばかりに踏み込むのがタブーになってきたし、なんとなく知りたがりの人に思われたくないし自分だって知られるのは勇気がいる。そんな中「お節介」てのは「アンテナが働いて、知ることで予感が実感につながって、何か手伝いが出来たらと思う」気持ちが原動力だ。本人的には善意。うっとうしくても善意。

本当に優しい社会、居場所は「お節介な人をお節介な人のまま活かせる場所」だと思う。私は結構最初苦手だった「お節介焼き」とは最終的に仲良くなるケースが多い。これは断るのも面倒になって話してみたら案外いい奴だったからだ。興味本位で近づいているのではなくて、私を見ててくれた証がその「お節介」だと知ったから。

私が相手を「お節介」だからと排除したのではなくそのまま(断念してではあるが)受け入れたからできたつながりだ。今は受け止められないなと言う時は「今いらない」って言える仲。対等であることが持続を叶える。

そんな風に、どこかでは「いらない」と思われている能力がどこかでは「どっかにないかな」と求められていることがある。たくさんの能力が集っていれば、出会う確率は上がるってことだ。

「それ面白いね」と相手に言える勇気だけあれば、人はつながっていけると思う。大事なのは「それ面白いね」って言い合える場を年齢も学歴も職歴も既婚未婚、子供がいるいない関係なく、自分の「それ面白いね」が言える場所があなたにはありますか、ってことだと思う。

まずは自分の町には何があるか、遅ればせながら思ったのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?