命を弄ぶ男ふたり(2021,12/30)

2021年12月30日、岸田國士氏の『命を弄ぶ男ふたり』をツイキャスで拝聴した。

アルコさんとたかはらたいしさんによるこの一幕は、来年の年末にサシで何かやろう、という二人の間の発起から足掛け一年を経て実現した。

本稿はお芝居そのものの妙や構造についての感想ではなく、お二人の熱量と勢い、それによって生まれた強い求心力について書きたい。

一言でまとめるとこの一幕は超豪速球のキャッチボールだったと思う。

相手の捕りやすい球を投げてあげるという姿勢はとても重要なことだと思う。
役者ひとりきりで、身勝手に好き放題やるのもそれはそれで味があるが、もしお客のひとりでもいれば、やはりキャッチできない投球は自由ではなく暴投になってしまう。

その一方で、彼我甲乙息の合ったいいお芝居の裏にはどうしてもそこはかとない予定調和感が漂ってしまうとも思う。

捕りやすい球の応酬は客席から観ていても、ああそうなるよね、そうくるよね、それが妥当だよねという予測から大きく外れることが難しい。
よく言えば自然でそつのない表現ということになる。安心感と安定感がある。

私は一年、このふたりに随分と良くしてもらった。
私はこのふたりのお芝居に対する姿勢や考え方がとても好きだ。
舞台の外でも『酒を飲むとダメな大人の集まり』みたいな括りでなんとも言えないシンパシーがあった。

さて、この一幕は上演時間およそ一時間程度の掌編の戯曲である。
しかし晦日の一幕は、ふたりの一年という背景を前提に、今年最後という大名目を背負って開演された。

アルコさんとたかはらたいしさんは、相手への好意だとか、信頼だとか、経験則だとかをひっくるめたでっかいグローブで存分に殴り合ったと思う。

実際の心境は当の本人たちにしかわからないが、予定調和が入り込む隙間のない密度とアツさで振り抜いていたように感じた。

コイツ相手なら思う存分やっていいだろうという安心感を土台に、思う存分ふたりでお芝居をする。

そこに生まれるのは他に類を見ないスリルと、目ならぬ耳が離せない求心力だった。緊張感を保ったままアソビを残して一気に駆け抜ける、一年の終わりに相応しいエキセントリックな上演だった。

結局のところ何をするにもひとりではどうしようもない。
だからといって頭数だけ集めてもとりとめもない。

ある種の共通項、同じとはいかないまでも近しい思想や匂いを頼りにするしか、自分以外の誰かと世界観を共有するということは難しいんだなという結論に至った。

誰とでも、いつでも、手軽に気軽にでは出せない空気感というものがあると思う。

様々な思惑と条件を混ぜ合わせて成り立った奇跡の一杯。

役者二人がただ自らの技量を恃むのではなく、相手への信頼にお互いがお互いに乗せてもらうふたり芝居。
生命活動という意味ではなく人生という意味でこのふたりは命を弄ぶわけである。

そういうわけで、この芝居が面白くない訳が無いのであった。




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