エビデンスはだれのものか

臨床医学におけるエビデンスが主張に権威性を付加する道具として無批判に用いられることがしばしばあると感じる。エビデンスを盲信し、任意の臨床疑問に対する「科学的に正しい答え」はこの世のどこかに出来上がった形で用意されているのだと幻想を抱いているかに見える人々もいる。しかし、エビデンスとは紛れもなく人の手によって生み出され解釈された産物であることを忘れてはならない。現代においても、テーマによっては信頼性の高いデータの蓄積が充分とは言えないことが多々あり、未だに明確な答えを誰も知らない臨床的問いも数多く存在する。

臨床研究は一般に基礎研究などと比較して条件の統制が困難であり、信頼性の高い結論を得るためには膨大なサンプル数が必要となる。そのため信頼性の高い研究には莫大なコストがかかり、特に長期間の追跡においては顕著となる。そのような研究を行える施設は限られ、充分な追試も行われづらい。企業との利益相反もしばしば問題となる。また、テーマによっては限られた患者数、患者との利益相反、研究倫理など様々な理由で介入研究が難しく、信頼性の劣る研究デザインしか選択できないこともある。さらに、優れたデザインの研究にもそれぞれ限界が存在する。研究結果から「何が言えそうか」だけではなく「何が言えないか」も解釈において重要であり、限界を意識した上で結果を活用することが求められる。

このように、テーマによってはその時点で限定的なエビデンスしか存在しないことも少なくないため、臨床的問いについて普遍的なコンセンサスに至ることはしばしば困難である。それでも、ガイドラインや制度の提言、医学教育などで、臨床現場におけるアウトカムを可能な限り最大化するために、既存の研究結果からコンセンサスを議論することが専門家として要求される場面はありえる。だが、通常個々の臨床家に求められるエビデンスの活用は「このケースにおける最も妥当な臨床判断はどれか?」と個別の具体的な症例について、先行研究からリスク・ベネフィットを確率的に検討し、判断の材料にすることであり、明確な意義がない限り公の場での普遍的な言及には努めて慎重になるべきだと考える。

エビデンスを声高に主張する前に、主張を通じて自分は誰の利益を最大化しようとしているのか、自分の主張が本当にポジティブに機能するのか、問い直す姿勢を持ちたいと自省する。

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