見出し画像

夢を通して自分の姿を見る

夢の記録を続けていると、なんじゃこりゃ〜!と思うような内容に戸惑うことがあります。

夢の体験は、肉体という物質から離れたエーテル体が、エーテル界、アストラル界、メンタル界の領域へ行って再び肉体へ戻り、地球の体験知識へと変換したものです。物質ではない領域での体験を通訳するので、地上にないものはどうしてもそのまま持ち帰ることができません。今まで見たことも聞いたこともないものを説明しようとすると、近いものに例えるしかなくなります。

「グロメッチャな生き物がドレドレして私はグブレッシャがギメーンだ」

と説明したところで何がなんだか分かりませんから、経験上近い印象のものに変換するわけです。

「巨大なクモがうねうねして近寄ってきたから私は驚いて飛び退いた」

わかりやすくなってきました。しかし、夢で見たグロメッチャな生き物は、クモとは似ても似つかない形かもしれません。けれども自分にとって記憶できる形にするには、自分にとってのグロメッチャっぽいものを借りてきて「ああそうそう、こんな感じ」という形に落とし込まなくてはなりません。そこで「地球式翻訳」を行っていることになります。まだ見ぬ世界をありのままでは受け止められないがために、我々にしか通用しない概念を無理やり当てはめているのです。

今住んでいる街にいて、自宅で普通にラーメン食べている夢を見たよ。という場合、それはそのまま自分の家を表していることもあれば、自分にとって家のように居心地がいい場所を表しているかもしれないのです。

同じように友人や知人、芸能人などが出てきた場合、その友人や芸能人に対して自分が普段からどのようなイメージを持って接しているかを考えてみることがヒントになります。元になっている印象を拾ってみるのです。間違っても「夢で友達に嫌いと言われた。あいつは自分が嫌いに違いない」とか、「夢で彼に告白された。彼は私のことが好きなんだ」などと、現実と混同してはいけません。

自分が考えている以上に、物事の見え方には偏りがあります。自分自身の偏見や思い込みは、灯台の下のように見えにくいものです。人間は物事を見たいようにしか見ていません。都合が悪いものを無視してみたり、自分自身を防衛するために、入ってきた情報を無意識のうちに取捨選択しているのです。

入ってきた情報を丸ごとそのまま受け止めないのは、そうすることで自分自身とその世界を守っているからでもあります。しかし、自分や夢と向き合おうとする時、その歪んだレンズは妨げとなります。

夢を見た時、そのまま地上的な意味で受け止めるのではなく、自分にとって何を意味しているのかを意識してみましょう。現実で問題を抱えている場合、それが夢の内容に影響を与える場合もあります。

私は夢を見るたび、なんて地上的なものの見方に固執しているんだろうと思い、自分の中の偏見に気付かされることもあります。しかしそうやって向き合う機会がなければ、偏見とは一体化したままになってしまいます。夢は自分自身の姿と向き合い、偏った見方を自分自身から引き剥がす格好のチャンスでもあるのです。

地上でのイメージに囚われなくなってくると、夢の中の登場人物は人の形をしなくなったり、形容しがたい体験が増えていくかもしれません。私はまだまだ地上的な夢を見ています。型を破っていきたいですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?