スピリチュアルリズムとの出会い 2



スピリチュアリズムとの出会い。

今回は、アラン・カルデック自伝からの引用です。

  アラン・カルデックの本名はイポリット=レオン・ドゥニザール・リヴァーユ(1804~1869)。
  10歳のときにスイスのペスタロッチ学院に入学。化学、物理、数学、天文学、医学、語学、修辞学を総合的に学ぶ。
  医学の博士号を取る一方、6カ国語を自由にあやつった。フランスの教育学者、哲学者。

以下引用

霊実在主義との出会い

 私が<回転するテーブル>のことを初めて聞いたのは、1854年のことだった。ある日、以前から名前は知っていたが、それまで会ったことのなかったフォルチエ氏に会ったのである。彼は言った。

動物磁気(注:オーストリアの医師メスメル(1734~1815)が唱えた生体に流れる目に見えない磁気エネルギーのこと)に関してはご存知だと思うのですが、実は、磁気化の対象が、どうも人間だけではなさそうだということが分かってきたのです。テーブルを磁気化して回転させたり、思いのままに動かしたりすることができるようなのですよ」

「それはまことに興味深いことです」と私は答えた。「しかし、そんなことが実際に起こるとは思われませんね。『動物磁気が、命を持たぬ物体に働きかけて、それを動かす』などということがあり得るものでしょうか?」

 ナント、マルセイユ、あるいはその他の都市で実験記録が新聞に掲載されてはいたが、私には、そのような現象が現実に起こりうるとはどうしても考えられなかった。

 そのときからしばらくして、私はまたフォルチエ氏に会った。彼は私に言った。

「もっと驚くべきことが起こり始めましたよ。テーブルを磁気化して動かすだけでなく、テーブルに話をさせることも可能になったのです。テーブルに質問すると、なんと、その質問に答えるのです!」

「それは、また別の問題ですね」と私は答えた。「それを実際に見ることができ、そして、『テーブルが、考えるための脳を備え、感じるための神経を持ち、人間のように話をすることが可能だ』と証明されたのなら、そういうことを信じもしましょう。それまでは、おとぎ話ということにしておきます」

 私の推論は、論理的なものだった。何らかのメカニズムによってテーブルが動くことは考えられた。しかし、その現象がどのようにして起こるか、その原因、法則を知らなかったので、単なる物質が知性を持つように振る舞うことが荒唐無稽であるように思われたのである。今日、いまだにそれらの現象を信じないでいる人々と同じ立場に私はいたのである。つまり、自分が理解できないことに関しては、それを存在しないとみなす立場である。

 19世紀初頭に、「たった1時間で、2000キロ離れた場所に手紙を送り、その返事を受け取ることができる」と言ったとすれば、鼻先であざ笑われたであろう。科学的に考えれば、そんなことは無理に決まっているからである。電気の法則が知られる今日では、そんなことは常識である。

 実は、霊現象に関しても、まったく同じことなのだ。霊現象に関する法則を知らなければ、それは摩訶不思議な現象、したがって、あり得ない現象だと思われるのである。しかし、ひとたび法則が明らかになるや否や、荒唐無稽なものではなくなる。理性によって、その可能性が、充分、許容できるようになるからだ。

 しかし、そのころはまだ事実がしっかり説明されていなかった。したがって、それは明らかに自然法則に反すると思われた。私の理性はそれを受け入れることを拒否していた。私はまだ、そうした現象を何一つ見ていなかったのである。

 実験が、尊敬すべき、信頼に足る人々の前で行われたとすれば、その場においてテーブルが動いたということは、あり得ないことではないと思われた。しかし、そのテーブルが<語る>となると、とうてい受け入れられるものではなかった。

 翌年、つまり1855年の初頭に、私は25歳の若き友人カルロッティ氏に会った。彼は<語るテーブル>について1時間近くも熱心に語り、私に新たな考え方を提示してくださった。

 カルロッティ氏は、コルシカの生まれであり、エネルギッシュで熱い人である。彼の大いなる、美しい魂を愛してはいたが、話しぶりに誇張があるのが気になった。

 彼は、そうした現象に霊が介在している、ということについて私に語った初めての人間だった。数々の驚くべきことを私に教えてくれたが、それらは私を納得させるどころか、かえって私の疑いを掻き立てたのだった。

「あなたもいずれ私たちの仲間になりますよ」と彼は言った。

「そうならないとは言いません」と私は答えた。「そのうち分かることです」

 それからしばらくして、1855年の5月ごろ、私はフォルチエ氏とともに、夢遊病者のロジェ夫人の家を訪れ、そこで、パチエ氏ならびにプレヌメゾン夫人に会った。彼らは、テーブルにまつわる現象に関して、カロッティ氏と同じような意味合いのことを言ったが、その語り口はまったく異なっていた。

 パチエ氏は、かなり年配の公務員であって、教養豊かであり、まじめで、冷静かつ穏やかな人柄だった。あらゆる熱狂から無縁な彼の話を聞いて、私は深い印象を受けた。

 そのため、「グランジュ・バトリエール街にあるプレヌメゾン夫人の家で実験が行われるので、出席されてはどうですか」と勧められたとき、私は喜んでその会合に出席することにした。翌週の火曜日、夜8時に伺う約束をした。

 そういうわけで、私はその日、初めて、回転し、飛び跳ね、動き回るテーブルを、目の当たりにしたのだった。それは、疑いをさしはさむ余地のない状況のもとで行われた。また、不完全なかたちではあるが、霊媒が籠に固定されたペンを使って自動書記を行うのも見た。

 私は大いに興味を掻き立てられた。そうした現象には原因があるはずだった。それらは一見たわいのないお遊びのようにも思われたが、私には、それらの背後に極めて重大な何か、新たな法則のようなものが隠されているように感じられた。そして、それを探求してみようと考えた。

 やがて、もっと注意深く観察する機会が与えられた。プレヌメゾン夫人のところで開かれていた集いで、当時ロシュシュアール街に住んでいたボダン一家と知り合うことになったからである。ボダン氏は、毎週ボダン家で行われていたセッションに招いてくださったので、私は欠かさず出席することにした。

 この集いには、かなりの人数が出席していた。「常連のほかに、誰でも、来たい人は来てよろしい」ということになっていたからである。

 霊媒は、ボダン家の二人の娘が務めた。彼女たちは、二人で持った籠を石盤の上に乗せて自動書記をするのだった。この方法だと霊媒が二人要るわけだが、それだけに、霊媒の考えが記述の内容に影響を及ぼす可能性はゼロである。

 このようにして、質問に対する答えが与えられるのであるが、ときには、心で質問を考えただけで、その答えが与えられることもあった。

 質問の内容は、だいたいどうでもいいようなことが多かった。生活上のこまごましたこと、将来のことなど、要するに、本当に真剣な質問はなされなかったのである。好奇心を満たし、おもしろがることが、出席者たちの関心であるようだった。

 答える霊は、だいたいいつも<Zephyr(そよ風)>と署名していたが、これは、この交霊会の性格と降りてくる霊の性格を完璧に言い表す名前であった。

 この霊は非常に善良で、「ボダン家の家族を守っている」と言っていた。冗談を言うことが多かったが、必要とあれば智恵に満ちた忠告をすることもできた。また、ときには、辛辣で機知に富んだ警句を吐くこともあった。

 やがて、私もこの霊と話すようになった。彼は私に対していつも非常に好意的だった。霊格が特に高いというわけではなかったが、のちのち、上位の霊の指導のもと、私の初期の仕事を助けてくれることになる。

 そのうち、「そろそろ地上に生まれ変わる」と言いはじめ、その後、通信が途絶えた。

 このあたりから、私はまじめに霊現象を研究しはじめた。起こっていることをじっくりと、真剣に観察するようになったのである。

そして、かつて自然科学を学んだときの方法論、つまり実験的な手法を、この新たな科学にも適用した。前もって仮説を立てるということをせず、注意深く観察し、比較し、結論を推測した。帰納を行い、事実を論理的に結びつけ、結果から原因を探り、問題をすべて解決できないかぎり、その説明を認めないようにした。これが、私が25歳以来ずっととってきた方法だった。

私は、まず、「起こっている事態がとてつもなく重大であるらしい」ということを感じた。「そこには、人類の過去および未来に関するあらゆる問題を、完全に解く鍵が潜んでいる可能性がある」ということに気がついたのだ。もしかすると、私がそれまでずっと探し求めてきた最終的な解決法が見つかるかもしれなかったのである。つまり、「哲学と信仰に関する革命が起こり得る」ということだった。

 したがって、軽々しく振る舞うべきではなく、慎重にも慎重を期さなければならないと自戒した。幻想にとらわれないように、あらゆる思い込みを捨て、厳格に実証主義を貫くべきだと思った。

 最初に分かったのは、「霊といっても人間の魂にすぎず、したがって、必ずしも至高の知識や至高の智慧を備えているわけではない」ということだった。「悟りの段階に応じて彼らの知は限られており、その意見は個人的なものにすぎない」ということである。この事実を知ったために、私は、霊が無謬であるということを信じ込まずにいられたのだ。そのおかげで、「一人ないしは数人の霊人の言うことだけを基にして、早急に理論をつくり上げる」という過ちを犯さずに済んだ。

 霊との交流から学んだことは、「われわれのまわりに、見えない世界、すなわち霊の世界が広がっている」ということだった。それだけで、すでに大変なことだった。「無限とも言える領域が、われわれの探求を待っている」ということだからだ。また、「これまで説明不能だった山のような現象を合理的に説明する鍵を手に入れられる」ということだからだ。

 さらに、これも同様に重要なことであるが、「霊界の状態、霊人たちの生活習慣を知ることができる」ということである。

 やがて、それぞれの霊人から、その境涯に応じた情報を得ることになっていく。

 それは、ちょうど、外国人から、その国に関する情報を教えてもらうようなものだった。各人から、彼が属する階級や境遇に応じたことを教えてもらえるが、あくまでも、それは個人的な情報にすぎず、それだけでは、国の全体について知ることは決してできない。さまざまな方面から情報を集め、それらを吟味し、比較し、照合し、その上で全体像をつくり上げるのは、われわれの役目である。

 そんなふうにして、人間と付き合うようにして霊人たちと付き合った。最もつまらない霊から、最も偉大な霊に至るまで、決してその言葉を鵜呑みにすることなく、あくまでも単なる情報提供者として扱ったのである。

 以上が私の基本的な態度であり、常にそのようにして私は霊界の研究を続けた。「観察し、比較し、判断する」、これが私がとりつづけた方法論だった。

 そのころまで、ボダン家におけるセッションには、これといった目的はなかった。しかし、私は、その場を借りて、哲学に関し、心理学に関し、また、霊界の性質に関し、いろいろと質問して、それまで未解決だった問題の解決を図ることにした。セッションに行く前に、あらかじめ一連の質問を用意していったのである。それらの質問に対しては、いつも的確で論理的かつ深遠な答えが返された。

 それ以来、集いはまったく新たな様相を呈するようになった。出席者の中に、真摯な人々が加わるようになり、彼らが本当に積極的に会を運営するようになったのである。どうでもいいような質問は姿を消した。

 当初は、自分が学ぶことしか考えていなかった。しかし、徐々にそれが体系をなし、一つの教義としての体裁を整えていくに従い、私はやがて、それらを多くの人のために出版しようと考えるようになった。こうして、数々の質問を通して徐々に進展し、完全になっていった一連の主題が、『霊の書』の基礎をなすことになったのである。

 翌年の1856年には、ティクトヌ街のルスタン氏の家で行われていた集いにも参加するようになった。この集いは真摯なものであり、厳正に行われていた。霊界との交流は、ジャフェ嬢が霊媒を務め、小さな籠を使った自動書記によって行われていた。

 そのころ、私の本はほぼ完成しかかっていた。しかし、違う霊媒を使い、違う霊人たちからの情報も収集して、原稿をさらに吟味する必要があることを感じた。そこで、ルスタン氏の主宰する集いの場を借りて、あるテーマに関する最終的な詰めを行うことにした。

 セッションを始めてしばらくすると、霊人たちが、「もっと静かな場所で、内密に、そのテーマを扱いたい」と言ってきた。そして、「そのために、数日のあいだ、ジェフェ嬢とあなた二人だけを相手にしたセッションを行いたい」と提案してきた。

 その後、このセッションは行われたのだが、私はその結果には満足しなかった。私はすでに、それまで、ずいぶん多くの霊人たちと接触して、いろいろと忠告を受けており、そのために私の要求水準はそうとう高くなっていたからである。

 異なる霊媒を介して霊界通信を行う機会があるごとに、私は、さまざまな霊人たちに、最も厄介な問題に関して質問してきた。すでに10人以上の霊媒とセッションを行ってきており、それらで得られた情報を比較し、吟味し、統合し、その上で、瞑想しては、何度も何度も手直ししてきた。

 そのようにして、1857年4月18日に『霊の書』が刊行されたのである。

 この年の終わりごろには、ボダン家の二人のお嬢さんが結婚したしたために、集いは行われなくなった。しかし、私の交際する霊媒の範囲は広がっていたので、付き合う霊人たちも多くなっており、数多くの霊人から、その後の仕事を進めるための情報を得るようになったのである。

『アラン・カルデックの霊との対話』アラン・カルデック著 浅岡夢二訳 幸福の科学出版2006年(P256~266)



いかがでしょうか?
軽薄な思索、探求姿勢とは無縁であることがわかるかと思います。

ヨーロッパ文明圏で霊的現象への本格的な探究が始まったのは、1848年。
アメリカニューヨーク州北西部の小さな村ハイズヴィルのフォックス家で起きた心霊現象がきっかけです。
近代科学が隆盛を極める時代でのことでもあります。

『霊の書』が刊行されたのは、1857年。わずか9年後のこと。
『霊の書』の哲学的深さ、完成度は、以降の霊的現象の真贋を見極める貴重な資料であり、その光輝は今なお失われていません。

もう少し、時代が下がって1920年頃から開始されたシルバーバーチの霊言も、高貴さ、美しさ、深遠さにあふれています。



「スピリチュアリズムと言っても、それはただの用語にすぎません。私たちは用語には関心はありません。用語とは概念や実在をくるむための道具にすぎません。私たちの関心は霊力、神の力─私はそれを大霊と呼んでいるのですが─それが地上に根づくことです。どこでもよいのです。それが私たちの努力の背後にある目的です。

 なぜ霊力を根づかせようとするのか。それは、霊力には魂に感動をもたらし、真の生命に目覚めさせる力があるからです。どこでもよいのです。教会の中でも、外でも、家庭の中でもいいのです。目的とするのは一人一人の魂です。



 物的惰眠から目覚める段階まできた魂は、あなたの行動範囲にみずからやってくるか、あるいはあなたの方から訪れて、魂の種が蒔かれることになります。そのように導かれるのです。それでもし失敗したら、ひそかに涙を流しなさい。自分のためにでなく、その人のために。その人はチャンスを目の前にしながら、生かせなかったのです。しかし、そうこうしているうちに、そこかしこにタネの根づきやすい魂がいることが分かります。やがて芽を出し、花を咲かせ、急速に美しさと優雅さとを増していきます。そのタネに神性が宿されているからです。かくしてその魂は真の自我を発揮しはじめたことになります。

地上生活のそもそもの目的は人間が身体的・精神的・霊的の全側面を活用して生活することであり、その三つの側面が機能するに至るまでは本当の意味で生きているとは言えません。身体と精神のみで生きている間は影と幻を追い求め、実在に気づかずにおります。霊的自我が目覚めてはじめて、驚異的な霊的可能性と冒険への扉が開かれます。地上という物質の世界へ生まれて来たのは、その霊的自我を開発するためです。ですから、その目覚めがどこで生じるかは重要ではありません。重要なことは、魂が目を覚ますこと、そのことです。地上生活に悩みと苦しみが絶えないのは、そのためです。悩み苦しみ抜いた末に、もはや物的なものでは救いにならないと観念した時に、霊的なものへ目を向ける用意ができたことになります。

“風は思いのままに吹く”と聖書にもあります。風をどこにでも気ままに吹かせればよいのです。あなたは、受け入れる準備のできた魂に出会ったところで、存分に力になってあげることです」

『シルバーバーチの霊訓9』ステラ・ストーム編、近藤千雄訳(P163)『Philosophy of Silver Birch』Edited by Stella Strom (P116、117)


 スピリチュアリズムは、今までの世界観に対して新たな評価軸“霊の実在”を導入します。
 今まで適用していたもろもろの法則は停止することも廃止になることもありません。
 ただし、そこに“霊”という評価軸が加わり、いままで説明できなかったことが説明可能となったり、新しい視界が開けてくるということです。

お読みくださりありがとうございました。



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