死後の意識の存続 1

死後の意識の存続については、数多くの証言がある。
理解して得心すれば、なんでもない当たり前のことだが、「死んだらおしまい」という考えが強い世の中では、この事実に気がつくのは、それぞれ人によって時期があるようだ。

自分自身は、子供のころ、よく母親に叱られた。
そのとき心の中で「くそばばあ、死んじまえ」などと思ってしまったものだ。
しかし、母と父の間で寝ていた私は、夜中、ふと目が覚めるたときに、父と母の寝息の音を必ず確認して、父も母も生きていることを確かめてから眠りにつくようにしていた。「お父さん、お母さんがいなくなってしまったらどうしよう?」ということが、幼い時分の私にとっては最大の恐怖であった。
だから、「くそばばあ、死んじまえ」などと心の中でもつぶやいた日には、必ず神様に謝り「どうか、お父さん、お母さんを無事でいさせてください」と祈ったものだ。

 中学1年生の冬、夜中、突然、苦しい思いにとらわれ、その後意識を失ってしまったことがある。
それはてんかんの発作であったが、初めてこのとき「死んでしまうのは、この自分なのだ。この自分がまさに死ぬかもしれない存在なのだ」ということを深く実感した。

それは、とても深い恐怖の谷だった。

と同時に大きな発見でもあった。

「この自分が、死んでしまう存在なのだ」と実感すると、この世の中で起きる大抵のことは、たいしたことのないどうでもよいこのなのかもしれない。もっとも、目の前のことに全力を尽くすことは、最善策であることが多いけれども。
ただ、自分の人生を、一歩退いて遠くの視点から眺めることも重要なのだ。

 オリンピックや甲子園を人生の一大目標に据えることなど、ばかばかしくて論外。
また、使い切れもしない大金をせしめるために、あくせくし挙句の果てに不正を侵し他者に危害を及ぼすに至っては、「人生のこと、わかっていないんじゃないの?」というなんとも呆れた気分である。
 
 人が死んでしまうのは、当たり前のことだとわかっていた。しかし、それが自分に近しい人の死の場合には、その事態が襲って来ないことを、その死の訪れがなるべく遅くなることを切望していた。
しかし、この自分がまさか、「死にゆく存在」であることには、それまで気がつかなかった。

 私のてんかんの発作は、意識を消失する瞬間までが、非常に苦しい。例えるなら「息が苦しくて苦しくて仕方がない。次の息をしなくくては死んでしまう。息をしなくては!でも息ができない、したくてもできない、どうしよう、どうしよう、、、あーあー」という切羽詰まった極限で、意識を失うのだ。

 この自分が死んでしまう。このことを考えていることすらも跡形もなく無くなってしまう。そうだ、今考えていうこと、恐怖を感じていること、この感じているということすらも、きれいさっぱりと跡形もなく流されてしまうのだ。

これほど静かで深い恐怖感を私は未だに知らない。

この自分って何なのだろう。
深い謎だった。この謎を抱えて、ずっと生きてきた。
とても楽しい最中にも、ふとこの感覚が突然沸き起こり、考え込んでしまうこともあった。

皆さんは、自身の死に対しては、どんな感覚、思索をなさっているのでしょうか?


 さて、死後の世界からの通信は、数多く存在しています。それらは、霊媒現象や自動書記現象などによりもたらされるのですが、これらの現象には詐欺的行為もあるので、真偽の見極めが大切だと思います。

 さまざまな時代、さまざまな場所でいろんな人々を通して、死後の世界から通信は送られてきた。1848年以降、霊界からの通信は、より容易になったようである。おそらく、霊界で新たな発見、工夫、改善、進歩があっとものと思われます。


 死後の世界からの情報には一貫性があります。倫理的な美しさ、愛の重要性を説くこと、哲学的な深さ、合理性、それらに私は心を深くうたれます。

 死後の意識の存続を確信できるようになって、先ほど述べた恐怖感は薄らぎました。

それよりも、意識を失ってしまうてんかんの発作の方が恐ろしいと感じるのです。
ひょっとしたら、死ぬことよりも恐ろしい「意識の消失」を私は何十回と体験しているのかもしれません。

 てんかんの発作で意識を失ったあと、しばらく朦朧とした状態が継続します。この心理的な時間の長さは相当な長さです。

 このとき、なぜか私は反射的に「このままでは死んでしまう、なんとかしなきゃ。なんとかしなきゃ。」と精神的にもよろよろします。

 そして、水を飲んでみたり(このときの水の味わいがなんとも味気なく、生気がない)いろいろと試みるのですが、一向に改善しません。
 おかしいな~と感じているうちに、「ああ、さきほどてんかんの発作を起こした。それで、こんなにおかしいのだ」と感じると、ようやく通常意識との通路を見出だし、徐々にパニック状態から解放されるのです。
 このパニックに陥った状態の自分は「自分の意識を失ったことをも記憶していない」不思議な意識状態の別の自分です。この正体はわかりませんんが、これは死ぬことよりも恐ろしいものだと感じます。

さて、本題に入ります。まずは生前、無神論者だった人物からの通信を紹介します。





①『天国と地獄』アラン・カルデック著 浅岡夢二訳 幸福の科学出版 

『霊との対話』アラン・カルデック著 浅岡夢二訳 幸福の科学出版 

この2書は『Le Ciel et l’Enfer』(1865)の抄訳



『霊との対話』から引用

J・D氏は高い教育を受けていたが、骨の髄まで唯物主義が染み込んでおり、神も魂もまったく信じていなかった。

 死後2年たってから、義理の息子の依頼でパリ霊実在主義協会において招霊された。

――招霊します……。

「ああ、苦しい!俺は神から見放された」

――あなたのその後を心配されているご家族からの依頼で、こうして招霊させていただきましたが、こうして招霊することは、あなたに苦痛を与えることになったでしょうか?

「そうだ。つらい」

――あなたは、みずから死を選ばれたのですか?

「そのとおりだ」

この霊の書く文字は、恐ろしく乱れており、大きく、不規則で、痙攣しており、ほとんど読み取りがたいものであった。最初は、怒りのあまり、鉛筆を折り、紙を破ったほどだった。

――落ち着いてください。われわれは全員であなたのために神に祈りましょう。

「なんだと?俺に神を信じさせるつもりなのか?」



――どうして自殺などしたのですか?

「希望のない人生がほとほといやになったからだ」

 

人生に希望がなくなったとき、われわれ人間は自殺したくなる。あらゆる手段を講じて不幸から逃れようとするのである。

 だが、霊実在論を知れば、未来が開け、希望が戻ってくる。自殺はもはや選択肢の中には入らなくなる。そもそも、自殺によっては苦しみから逃れることはできず、かえって100倍も厳しい苦しみの中に落ち込むだけだということが分かるからである。そういうわけで、霊実在論によって自殺の危機から救われた人々の数はたいへん多い。

 科学あるいは理性の名によって、「死ねばすべて終わりである」という“信仰”をはびこらせた者たちの罪は大きいと言えよう。この絶望的な信仰によって、どれほど多くの悪と犯罪が引き起こされたことであろうか。この信仰を広めた者たちは、自分自身の過てる信仰が蔓延することによって生じたあらゆる悪に対しても責任が生じるのである。



――あなたは人生のもろもろの不幸から逃れようと思って自殺したわけですが、それで何か得るところはありましたか?生前よりも幸福になりましたか?

「死んだあとに、どうして虚無が存在しないのだ?」



――どうぞ可能なかぎり、あなたのいまの状態を教えてください。

「かつて否定していたことをすべて信じなければならないために、ひどく苦しんでいる。俺の魂は、まるで燃え盛る火の中に投げ込まれたみたいだ。本当に恐ろしい苦しみだ」



――どうして、生前、唯物主義者だったのですか?

「それよりも以前の人生で、俺は意地の悪い人間だったのだ。そのために、今回の人生で、俺は一生のあいだ疑いに苛まれることになった。そのために自殺したわけだが」



 このくだりを読むと、考えがたいへんよく整理できる。「霊界から生まれ変わってきたのだから、直観的に霊界があることが分かりそうなものなのに、それでも、なおかつ唯物主義になるのは、なぜだろうか?」という疑問もあるわけなのだが、その理由がここではっきりする。

 つまり、こういうことだ。

 前世から傲慢さを引きずっている者、みずからの過ちをしっかり悔い改めていない者には、まさしく、この直観が禁じられているということなのだ。彼らは、肉体生活のあいだ、絶えず目の前に示されている、神の存在と死後の生命の存続を、直観によってではなく、彼ら自身の理性によって把握しなければならないのである。

 しかし、思い上がりが激しいために、自分を超える存在を認めることができず、再び傲慢の罪を犯すことになる。そして、ひどく苦しむわけだが、その苦しみは、彼らが傲慢さを捨て去って、摂理の前にひざまずくまで続くのである。



――水中に沈んで、いよいよ死にそうになったとき、いったい自分はどうなると思いましたか?その瞬間にどんなことを考えましたか?

「何も考えなかった。何しろ、死後は虚無だと思っていたからな。あとになって、まだまだこれから苦しむのだということを知った」



――いまでは、「神も、魂も、あの世もある」ということが分かったのではありませんか?

「ああ!あまりにも苦しくて、そういったことはよく分からない!」



――お兄さんにはもう会いましたか?

「いや、会っていない」



――どうしてでしょう?

「どうして苦しみを足し合わせる必要があるのだ?兄も俺もいまは不幸なのだぞ。再会するのは、幸福になってからでよい……。ああ、何ということだ!」



――あなたのそばにお兄さんを呼んでさしあげましょうか?

「とんでもない!」



――どうして呼んでほしくないのですか?

「兄も幸福ではないからだ」



――お兄さんを見るのが怖いのですね。つらくなることはないと思いますよ。

「いや、結構だ。もっとあとにしてくれ」



――ご両親に何か言いたいことはありますか?

「『俺のために祈ってくれ』と伝えてほしい」



――あなたが生前属していた団体には、生前のあなたと同じような考えをしている人々が多いようですが、彼らに何か伝えたいことはありますか?

「ああ、なんと不幸な人たちだろう!彼らがあの世を信じられるようになるといいのだが。それが、俺が望む最大のことだ。いま俺がどうなっているかを彼らが知ることができれば、きっと考えも変わるだろうと思う」



J・D氏の兄。J・D氏と同じ考え方をしていたが、自殺したわけではなかった。不幸ではあったが、弟よりも落ち着いていた。文字もはっきりしており、読みやすかった。

――招霊します……。

「われわれの苦しんでいる姿が、あなたがたにとって教訓になりますように。そしてあなたがたが、あの世の存在を確信しますように。あの世では、過ち、そして不信仰の償いをします」



――先ほどわれわれが招霊していたあなたの弟さんと会いましたか?

「いいえ。弟は、私を避けているようですので」



――あなたは弟さんよりも落ち着いているようですね。あなたがどのように苦しんでおられるか、詳しく教えていただけますか?

「地上においても、あなたがたが自分の過ちを認めざるを得なくなったとき、思い上がりや慢心のゆえに苦しむことはありませんか?“あなたは間違っている”とはっきり指摘してくる人の前で、身を低くしなければならないとき、反発を感じるのではないですか?

   一生のあいだ、『死後には何も存在しない』と思いつづけてきた人間、しかも、『誰が何と言おうと絶対に自分が正しい』と思っていた人間が、『死後にも命がある』と知ったとき、どのように驚愕し、また苦しむと思いますか?

   突然、輝かしい真理の前に投げ出され、自分が無であると感じるのです。恥ずかしくて消え入りたくなります。しかも、その恥ずかしさに、かくも善で、かくも寛大な神の存在を、かくも長いあいだ忘れ果てていたことに対する後悔が付け加わるのです。これは実に耐えがたい苦しみです。安らぎどころではありません。平安どころではありません。そして、恩寵、すなわち神の愛がその身に及ぶまでは、決して心安らぐことがないのです。

   霊体全体が傲慢の衣にぴったり包まれているので、それを完全に脱ぐまでには、恐ろしいほどの時間がかかります。あなたがたのお祈りがなければ、とうていこの傲慢の衣を脱ぐことはできません」



――われわれがあなたの弟さんと話しているあいだに、ここにいらっしゃる、ある方が、弟さんのために祈ってくださいました。その祈りには効果があったでしょうか?

「仮に、弟が、いまそのお祈りを拒んだとしても、その効果が失われるわけではありません。そのお祈りの効果は生きつづけます。そして、弟が、受け入れる用意ができたときに、それは神聖なる万能薬として必ず弟を癒すことになるでしょう」

『霊との対話』アラン・カルデック著 浅岡夢二訳(P126~135)

いかがでしょうか?
どのような信仰をもって生きようと、本人の自由です。もちろん、無信仰も選択のうちにあります。

しかし、できることなら、霊の存在について真剣に考え、霊について学んでみることも、この束の間の人生の中で、とても有意義なものではないでしょうか?

ここまでお読みくださりありがとうございました。

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