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『信仰と想像力の哲学』を読む

読んでなくても買ってなくてもOKなフリーダム読書会を主催しています。

今月は『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』が課題本です。

出版されてすぐ読むぞー!と意気込んでいましたが、タイミング悪く原稿締め切りができてしまい結局前日に読み切る形になってしまいました。ギリギリでいつも生きていたくないのに気がついたらどったんばったん大騒ぎしている人生。できればデューイやブーアスティン、オルテガ、フロムあたりは引用元の書籍も読み込んでおきたかったところなのですが、それは今後の自分への宿題にします。

せっかく著者にも降臨していただくのに滑り込みすぎて圧倒的申し訳なさを感じつつ、感想と、もっと知りたいなと思ったポイントをつらつらと書き留めておきましょう。初対面かつ人がたくさんいると、言いたいことがうまく言えないことが多いので……。


感想① 「系譜」について

こんなツイートをしたところ、著者の谷川さんに拾っていただきました。

この本の副題は「ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜」となっています。まさしく「系譜」の部分が私には大ヒットでした。
だいたいのことは面白がれる人間のはずなのに、歴史を学ぶことの面白みは中学生の頃から今までよく分からないまま生きてきてしまいました。年号や人の名前の暗記じゃないんだよ、そこにはストーリーがあるんだよと色々な人に教えてもらいつつ、面白いと思うためのコツを掴みそこねていた感じです。なんで好きなの?ということへの回答が難しいように、なんで好きじゃないのかも言語化が難しいんですよね。
心理学史という観点でも、自分の学術的なルーツが臨床心理学(特に精神分析系)からスタートしていることもあり、ヨーロッパ以外のことをそういえば全然知らなかったなと思いました。学部生のときに無意識の発見をチラッと読んだけど、ほえー(分厚いし読んでたらねむい)と思って終わった記憶しかなく……。プラグマティズムという言葉は高校の倫理の授業ぶりに聞いたかもしれない。ていうかデューイの最初のヒット作って心理学の教科書だったの?!という時点でかなりの衝撃。
さて、私は過去に読んできた本のどれだけを「系譜」の中で理解できているのだろうか?「Aが書いたこの本に〇〇という記述があった」という事実の背景に、どんな歴史があり、著者が誰にどんな影響を受けてその一文を認めるに至ったのか?ということを、考えてきただろうか?

デューイは、同時代の知見から進んで学び、それを総合することで自身の哲学を形作ってきた。彼の特異な影響されやすさに注目することで、私達は、同時代の問題状況を再現することができるだけではなく、デューイという当代一流の哲学者の眼を通して、アメリカ哲学の系譜を再構築することができる。(p.45)

過去を生きた研究者の「眼」を通して解釈し、再構築するという視点を発見できたことがとても嬉しいです。

ここまでメタ的な話になってしまったので、本の内容の話をしましょう。


感想② 「適応」について


本書を貫くテーマはタイトルにもある「信仰」と「想像力」ですが、個人的には通奏低音的な「適応」概念に面白みを感じていました。

自己の欲求と環境の諸条件が衝突するとき、広義の「適応」が問題になる。デューイはそれを三つのレベル──「順応(accommodation)」「適合(adaption)」「適応(adjustment)」──で区別する。(p.64)

「順応」とは、「自己全体ではなく個別の行為様態にフォーカス」し、「調和プロセスで我慢や断念を用いるような受動性」。「適合」とは、「欲求や目的に見合った仕方で環境の側を改変するようなより積極的な対応」。そして「適応」は、「情勢変化にかかわらず、理想のために環境の持続的な改善に身を捧げる自己になるという変化」を表しています(p.64-65)。
さらに、デューイは「保証された主張可能性」(p.237)という概念が象徴するように、「自己と環境の双方が変化することを重視し、偶然的で不安定なものへの注目を欠かさなかった」(p245)ようです。脚注内には、「適応は、純粋に受動的でも純粋に能動的でもなく、いわば中動態的である」(p251)という示唆もありました。

デューイといえば教育学の人だよねと認識されているし、一般的語彙としての「適応」は学校現場にも浸透していると感じています。しかしそれは、デューイ的には「順応」で表している範囲も含まれたものなのではないでしょうか。
1年くらい前、読書会の課題本に『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』を選ぼうとしていたことをふと思い出しました。「この教室環境に我慢してでも調和しろ」ということも、「環境の側の調整で対応しよう」と考えることも、なんというか思考のあり方として答えが出そう感がありますよね(そんなことはない?)。ですが、本来は自己も環境もともに変容しつづける複雑な変化が必要だし、その実践の最中には答えが出ない状況にとどまりつづけることが求められるように思います。
ここで安易に自己責任論に走らず、「自分の生を引き受けるのは、その人だけのこと(自己責任)ではなく、私たちの問題(共同責任)である」(p276)という発想に軸足が置かれているのがデューイのバランス感覚なんだろうな、面白い、ちゃんとデューイ読みたい〜と思ったところです。


そして、ちゃんと文章にできてない感想メモ

文章にするのが間に合わない……。と思った雑多なトークネタみたいなのを書いておきます。途中で力尽きたのバレバレすぎる。


・結局、デューイが思う「アメリカ」って何なんだろうと思った。もちろんアメリカにも多種多様な人がいて一枚岩には語れないのかもしれないが、他の地域がアメリカナイズされることについて「風土病」と語ったそのデューイがアメリカを文化人類学的視点でどのように(ある種相対化して)捉えていたのか。
・フロムについて。p267あたり。フロイトとユングの理論的展開が異なっていったのは観ていた患者層が全然違うからだよねという話があり(あとで出展を探す……どこで読んだんだ……)、フロムは精神分析を必要としている「患者」である存在、デューイは「民主主義の哲学者」(p272)として、人間全般をその議論の前提に置いている以上、異なる帰結に至るだろうなと思う。精神医学とは医学であり「診断」という形式がある、かつその人が「治したい」という意志を持って(他の人が連れてきたとかそうではない場合もあるが)来ている相手を診ている以上、自己の内面にその理由を見出すような議論になるだろうなと思った。
・「個人主義」についての感想。1991年に社会心理学(文化心理学)において「相互独立的自己観」と「相互依存(協調)的自己観」の概念が発明され、また2000年に「孤独なボウリング」で社会関係資本の衰退が描かれた。そこに至るまでの議論に心理学者としてのデューイがいたことを考えると、共同体との連帯を構想していたことは非常に先駆的というか示唆的な議論だったんだろうなと思った。
・自己論との接続について。p79の「自己の統合(とその失敗)について、浅野(2001)の自己論とどう接続するのか気になるのでぜひ教えていただきたいです……

後半はさすがにこのまま放置すると恥ずかしいので、読書会後に余力があったらちゃんと文章化します。

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