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動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか フランス・ドゥ・ヴァール

 挑戦的なタイトルの本だ。動物の賢さと聞いて、水族館のイルカやアシカ、大道芸人の横にいる猿を想像したなら、それは半分正解で、半分間違いだ。
 心理学をかじったことがある人は、多彩な芸を披露する動物たちを見て「あれは全部条件づけだ(※1)」と一蹴するかもしれない。それでもまだ半分正解で、半分間違いになる。

 絵を描く象も手話をするゴリラも、確かに動物の賢さを証明するものだ(※2)。しかし、これらは全て「人間の世界から見た、人間が賢さと認めている能力や行動」である。
 もぐらのように目がほとんど見えず、匂いや触覚で周囲を知覚している動物もいれば、コウモリのように音で獲物を「見て」いるものもいる。動物ごとに感じている世界は違うのである。
 私たちの目に紫外線は映らないから、モンシロチョウの雌雄をすぐに見分けることはできない。しかし、紫外線の見える彼らは簡単に判断することができる。また、紫外線が見えることで、蜜のある花を見つけやすくなっている。
 サルは綿密な計画や役割分担を事前に決めずとも、協力して狩りを行うことができる。その際にお互いの意図を共有せずとも、各々が最善の選択をすることによりチームワークを発揮することも分かっている(※3)。

 このように考えると、人間が賢いと認める能力や特性は「言葉を使うこと」「計画を立てること」といった限られたものであると気づかされる。もちろんこのような認知機能によって現在の地球では人間が覇権を握っている。だから人間を頂点として、そこに至るまでの動物をピラミッド型に並べることもできる。
 しかし、それぞれの動物の見え方聞こえ方、身体の仕組みによって、別の賢さがあると考えた方がよりフェアで、豊かな見方ではないか。

 筆者はユクスキュルの「環世界」という概念(※4)から、動物の賢さを捉えようとする。環世界とは、客観的に捉えた世界に対して、主観的に捉えた世界を説明するものである。
 具体的に言うと、実はこれまでの説明の繰り返しになる。同じものを目の前にしても、その捉え方は人間とコウモリでは全く違うように、客観的に測定できるものはなく、主観的に捉えられた世界がある。これが「環世界」である。本書では、タコにはタコの環世界(※5)、モンシロチョウにはモンシロチョウの環世界があると考える。
 そうすることで、言語や論理を頂点とした賢さのピラミッドではなく、全く別の賢さのあり方を知ることができるのではないか。
 本書では、様々な動物の豊富なエピソードと、丁寧な観察・実験データに基づきながら、人間がどこまで動物の賢さを分かっているのか説明していく。人間は犬にも猫にもなれないが、彼らの環世界に入っていこうとすることはできる。その意味で「動物の賢さを分かるほど人間は賢い」ことを本書は示しているだろう。


※1 「条件づけ」と聞いて、ピンと来ない人は、「パブロフの犬」や「アルバート坊や」「スキナーボックス」などでググってください。本書は上記のような条件づけではなく、個々の動物に備わる個別の賢さを考えようとしている。

※2 こうした動物の賢さを示す逸話には真偽が疑わしいものも多い。しかし、逆説的にそうした例は動物の別の賢さを示していたりもする。例えば「賢い馬ハンス」などを調べると面白いかもしれない。

※3 互いの立場や意図に関心を持たないサルの行動から、彼らを人間の下位、あるいは人間に至る進化の途中の存在のように考えることもできる(マイケル・トマセロ「ヒトはなぜ協力するのか」)。しかし、これらは人間とは異なるサルの戦略として捉えた方がより豊かな実態が見えるのではないかとも思う。

※4 僕が環世界という概念を知ったのは、千葉雅也の「動きすぎてはいけない」だった。この本ではユクスキュルによるダニの考察の説明がなされている。また、先日偶然読んだ、伊藤亜紗「目の見えない人は世界をどう見ているのか」でもユクスキュルが紹介され、しかも僕が思いつきで書いたモンシロチョウの例が使われており、とても驚いた。

※5 タコの環世界に迫った本としては、ピーター・ゴドフリー=スミスの「タコの心身問題」が面白かった。この本でも人間(脊椎動物)とタコ(頭足類)の神経の違いから、タコの意識(≒環世界)とはどういうものか迫ろうとしている。

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