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聞こえる人間はいつでも手話を辞められる

耳が聞こえるのに手話をする理由は?

ずっと心の中にある、自分への問いかけ。


大学生のときに出会い、10年近く手話を続けていることになる。学生時代は手話をする「聞こえる」友人がたくさんいたはずなのに、今は数えるほどしかいない。


あんなにうまかった先輩も、講義の通訳までしていたあの人も、熱心に活動していた彼・彼女たちも、今やほとんど手話をしていないと、風の便りで聞いたりする。



大学時代のろうの友人と会って話すときに手話を使う。仕事でたまたまろう者と会ったときに手話を生かす。そんなことがあれば、素敵なことだと思う。

大学のサークル活動の一環で出会う手話なのだから、卒業してから疎遠になるのは他のサークル活動(音楽やスポーツ、芸術)と同じ。昔を懐かしんで、当時の仲間と会うときだけできたらそれで良い。

それで良いのか?


もちろん、手話を使うのは昔の友人と話すときや、偶然ろう者と出会ったときだけであることを否定はしない。ある意味1番理想的な、聴者としては自然な、手話との付き合い方とも言える。


そう。聴者としては自然。

聞こえるのに手話を続けるのは不自然?

だって、
聞こえる人間はいつでも手話を辞められる。


これを言ったら元も子もないのだけど、聴者同士なら、日本語で喋るのが1番早くて正確だ。

「手話の方が感情豊かな表現ができる」とか「水中や駅の反対側ホームにいても話せる」といったメリットを並べ立てることもできるけど、結局母語(日本語)と同等以上に手話表現するには高い技術が必要だし、手話が生きる場面なんて限られている。

「手話は便利で豊かな言語ですよ」という表現は正しいし、手話を広める上では大切。でも所詮第二言語なので、基本的に聴者は喋った方が早いという前提を覆すことはできない。だからろう者との付き合いに必然性がなければ、手話とも疎遠になっていく。それが自然な流れ。



聴覚障害者と手話の関係はどうだろうか。
聴覚障害者の中にも手話を知らない人、好まない人がいる。

ただ、聞こえる人間が手話を知ってから辞めることと、聞こえない人間が手話を知ってから辞めることの意味は全く違う。

聞こえる人間は手話を忘れ去ったとしても、ろう者との繋がりを切って、聞こえる友人たちと繋がり続ければ何の問題もない。手話ができなくても、普段の生活で出会う人たちの99%は日本語が通じるはずなので、日常のコミュニケーションにはほとんど不自由ないはずだ。

聴覚障害者は違う。日常で出会う人たちの99%は日本語で話しかけてくる。口話や筆談があっても、結局手話(日本語対応手話含む)がある方が分かりやすい。使う頻度は人それぞれでも、一度覚えておけば便利なことには違いない。

一度手話の世界に入ることができたら、日常の口話や筆談と比べて負荷が少ない会話を、いつでもすることができる。

ろう者の狭い人間関係を嫌う若者も多いと聞くが(実際面倒な部分もあると思うが)、結局スムーズにコミュニケーションがとれるのは同世代のろう・難聴の友人で、新たな人間関係を作るのは一般的に極めて困難だと思う。


今の時代、聞こえたとしても、社会人になって新しい人間関係を作るのは難しい。ただし、聴者が言う「人見知りだから」とか「出会いのきっかけがないから」とは次元の違うところに聴覚障害者は立っている。

マッチングアプリやオフ会、地域の趣味やスポーツの集まり、どこで会っても「聞こえない」のだから。

そうして結局ろう者は閉じたコミュニティの中で生きていく。これは、ろう者が勝手に閉じこもるのではなく、聴者が明確に「排除」した結果でそうなっている。別に全国民が手話を覚えるべき!みたいな強い主張がしたい訳じゃない。
事実として、今も聞こえる人間と聞こえない人間には大きな壁があるという話。その壁に気づいた後、改めて最初の問いがまた僕の元に返ってくる。

聞こえる人間はいつでも手話を辞められる。
それなのに手話を続ける理由は?

長くなったので、次回。
自分なりの理由を考えてみよう。

手話をしていた人、細々と続けている人、今はしていないけどまたしたいと思っている人、人によって状況は違うし、関わり方もそれぞれ。

それでも、聞こえる人は考えてみてほしい。
手話を辞めるってどういうことなのか。
なぜ、あなたは手話を忘れることができたのか。

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