これからの福祉について、飛びつかれながら考える。

いやー9月もなんとか課題提出は間に合いました。レポートの労力の見積りも割と正確になってきたのですが、そうなると欲が出てきてあれこれ手を広げてしまうのが欠点で。でも時間があればやるかというとそうでもないのである。

放課後デイのバイトも順調です。限られた時間で子どもと遊ぶのは楽しい。最近では遠慮がなくなってきて、低学年の子が助走して飛びついてくるようになりました…ニャンまげか!(※日光江戸村のキャラ)一人を背中に抱えつつ別の子の相手をしたりする姿は子沢山な肝っ玉かあさんのようです。

放課後デイは数年前から始まったサービスで、今は淘汰の時期に来てるとも思うのですが、どんなサービスが提供できるのかなって自分なりに考えてみました。(所属先の意向とは別物な個人的意見です。)

まず、家庭でも学校でもないということは、いい意味で公的な課題が小さくて自由度が大きいので、そこで何ができるのかというと、まぁこれでしょうね→「のびのび」。家庭でも学校でもなかなかできないユルい経験をする。将来の非公式な世の中体験につながるような、雑談とか余暇とかそういうもののあり方を、仲間やスタッフからなんとなーく吸収してもらいたい。

…というようなテンションで私はやっておりますが、もちろん指導に熱心なスタッフもおります。生活習慣・しつけ・宿題・学習などの指導比率が高い人もいるという多様性は大切なことだと思って尊重しています。その人達のおかげで私は(相対的に)ユルさ担当になれるとも言えるのです。

一見、ユルくリラックスして過ごすことを支援している態度は、指導機会の損失のような「手抜き」に見えるかも知れません。けれど、家庭でも学校でもあるべき姿とのギャップに苦しみがちな子どもたちを「まぁそのままでいいんだよ」って普通に受け止めてあげる時間は必要だと思うのです。実は様子を見守りつつも手も口も出さないのって結構神経使うんですよー(例:自分の子どもにできますか?)。またかなりゆるめの一線であってもそこを越えたらきっぱりとポイントを伝える。

このようなスタイルを確立するために、必要があれば説明したり相談したりして、他のスタッフからも徐々に理解してもらおうと思っています。つい管理的におとなしくさせたいと思ってしまいがちな大人側も、ゆらぎながら育っていく様子を肯定的にとらえていこうではないか。医療モデルから生活モデルへ。

たぶんそれが、今の私だけにできる、オリジナルの療育だと思う。
対子ども、そして対大人で伝えられること。
これまで様々なエッセンスを集めつくして分析して試行錯誤してきた最後の到達点が「ユルさ」というのも誠に私らしいといえばそのとおりなのですが、他の人がいても・自分なりにリラックスして・なんとなく受け入れてもらえるというような対人感情の基礎は、いつか世の中に出たときに必ず役に立つ。大事な大事な自己肯定感の栄養になるのです。

リラックスは、訓練です。一緒にがんばろうな、子どもたちよ。

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