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得られるモノは同じではない話

今回は、平等 or 公平にもらえるものは同じでも、得られるモノは同じではないという概念的な話と、関わる方々の機会損失をできるだけさせないようにするには?という想いを書き綴っていくnote


世の中において平等と公平さが混在して成り立っていますが、その辺りの私自身の解釈を交えていきます。よろしくおねがいします。
 
 
 

平等と公平のイメージ

平等と公平は違う。そもそも漢字から違うし、ニュアンスとして

平等…差別が無く、みな等しい事。 仏教用語
 
公平…公に平らな事、すなわち一定の集団において、偏らないという事

Wikipedia

似たような事を言っているが、等しいか偏らないかという明確な違いがあるし、個々の概念なのか社会一般的な概念なのかの違いもあるかと思う


言語からのイメージは

このイメージ。
見るという目的に対してどのような違いが生まれるのか?
平等だと踏み台を2つずつ均等に分ける感じで、公平だと背が小さくて見えない方が3つ、大きい方が1つという目的達成の為に数は揃えない感じ


さらなるイメージとしては、同じ力量を持つ選手同士の100メートル短距離走のスタートラインは平等で、オリンピック選手と一般の方が混同している100メートル短距離走のスタートラインにおいて、ハンデが付いている状態が公平って感じでしょうかね?


ゴールという結果は、個々の力量や様々な要因が絡んできて平等でも公平でもないという事は重々承知ではあるものの、スタート位置という所で言えば、後者(公平)の方がエンタメとしての楽しみが拡がると思っています


そもそものスタート前から力量に差があるのに、平等という同じ位置からのスタートは、よほどの大番狂わせがない限り、能力の低いモノが勝つ確率は結構低く、

その大番狂わせを起こす可能性を上げる為、能力の高いモノを焦らせる環境としての公平さの方が、
面白みや可能性が加味されたり、想像の余白付加が増したりするので楽しみが拡がるのかなと…

話が逸れたので戻しましょう


スタート位置を工夫する云々の前に大事なのは、大前提である“スタート位置につく”という行為そのものが、そもそも尊いと思っているんですよね

 
 
 
 
 

自主的なスタート位置につくという行為を応援したい

何かを始めるのにスタート位置につくって当たり前じゃん?と思われるかもしれませんが、少し考えてみてほしいのです


強制的に立たされていたという事もあるとは思いますが、位置につくという事を自身で選択出来た環境においては、その選択をしない限り、そのスタート位置には立てていないんですよね


何かを始める時というのはエネルギーの負担が相当かかります

下記は憂いたとはなっていますが、イメージの意味合いとしては

取るべき手段として
①現状維持
②同環境内でも別位置の快適な場所を模索
③同環境が変化するように行動
④別な既存環境に移動
⑤自ら新たな環境を創作
⑥未体験な既存領域に移動
⑦未知な領域を開拓
※段階が上がる程ストレスを感じるので、現状どこなら耐えうるのか見定める必要がある

このような感じで、他のものを当てはめたとしても汎用性はあるのかなと


だからこそ、まずは動けた事を尊び、何か力になれる事はお役立てしたいと思うのです

運動習慣をつけたい、勉強を始めたい、痩せたい等、今の状態を何とかしたいと動いたエネルギーに報いたい

 
 
 
 
 

スタート位置についた後は個々の感性によって、相違が生まれる

同じものを同じタイミングで見たとしても、受ける感性は異なるし、そこからの着地点も違う

そもそもの経験遍歴が違うのだから当たり前ですよね


だからこそ、まず見る・見せるというスタート位置につかせる行為が大事

見ないとその感性も生まれないし、氣づけない

僕は職業柄、人にお伝えする事が多い立場なので公平に経験させるという事は意識しているつもりです


これをお読みになった皆々様にとって何かの氣づき、きっかけになれば嬉しいです!

別noteもよろしくおねがいします(・∀・)

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