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【人物史】村上啓作

『戦争要論』の著者、村上啓作についての紹介です。

1.概 要

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村上啓作

 帝国陸軍軍人、『戦争要論』の著者、第3軍司令官時に終戦を迎える、シベリア抑留時に病死、中少尉時代のあだ名は「学識」(飯村穣談)

2.著作及び資料

3.年 譜

1889.6.16 栃木県喜連川の農業・村上角次の四男として生れる。
陸軍中央幼年学校予科
中央幼年学校本科
1910.5.28 陸軍士官学校卒業(22期)
1910.12.26 工兵少尉に任官し、近衛歩兵第3連隊付(小隊長)
1913 中尉、陸軍大学校に入校
1915 このころ、『戦争要論』を著したか(要調査)
1916.11.25 陸軍大学校を優等(恩賜)で卒業(28期)、第3連隊に復帰
1917 陸軍技術審査部付(軍事調査部)、世界大戦研究部員
1919 歩兵第3連隊付、欧州(ロシア?、ポーランド、ラトヴィア、ドイツ、フランス)に出張し、同地で戦史研究に従事する。

1920 大尉
1922 帰国、陸大教官(戦史教官)、兼参謀本部員
1927 参謀本部教育及び演習課員(大規模演習及び参謀将校教育業務を管掌)
1929 陸大教官(戦術教官)
1931.8.1 陸軍省軍務局課員(軍事課高級課員)
1933.8.1 大佐、歩兵第34連隊長 
1934.3.5 陸軍歩兵学校教導隊長兼教練教官
1935 陸軍省陸軍学校編成課長?
1935.10.11 軍務局軍事課長
1936.3.28 陸大教官(戦史教官)
1936.8.1 陸大研主事

1937.8.2   少将
1938.12.1 関東軍附(西南部満州臨時旅団長)
1939.10.2 中将、第39師団長、日中戦争に出征、宜昌作戦に従事1940.4.29 勲1等旭日大綬章
1941.9.1 陸軍科学学校長、太平洋戦争勃発
1942.12.1 参謀本部附
1943.3.9 総力戦研究所長

1943.12.16 陸軍公主嶺学校長(大隊長及び連隊長に対し、諸兵種協同動作に関する問題を教育)
1944.8.30 関東軍司令部附
1944.11.22 第3軍司令官、満州へ出征し、延吉で終戦
戦後はシベリアに抑留
1946 東京国際軍事裁判のための訊問を受ける。
1948.9.17 ハバロフスク収容所にて病死。享年59歳。

4.村上啓作が考える日本敗戦の要因

「法廷証第722号: 證人訊問調書/ 村上啓作」より

「問.この戦争における日本敗北の原因を貴方自身はいかに判断するか?」

「答.第一にこの戦争は工業力を始めとしあらゆる部門にわたり日本の国力に相応せぬものであった。日本の工業は極めて弱く軍の需要を保護し得なかった。
 第ニには、戦略上の過失である。作戦地区は一地において強化せるべきものにかかわらず拡大しすぎた。
 第三には外交の失敗である。
 ドイツとの同盟は日本にとって不利であった。英国と同盟した方が遥かに有利であった。そのほか、日本がドイツの対「ソ」戦を抑え得なかったこと、また独「ソ」戦開始後は「スターリングラード」付近におけるドイツ軍の敗北以前に戦争を終結せざるを得なかったことも失敗である。
 第ニの外交上の過失は対米戦争である。1941年春は米国と和する絶好の機会であって、米国政府の回答は日本に都合のいいものであった。しかるに日本はこの回答に同意を与えず、かえって戦争を始めた。次いでシンガポールの占領は英国との戦争終結の後期なりしにかかわらずこれを行おうともしなかった。
 日本の敗戦に大なる役割を果たしたのは原子爆弾と「ラジオロケーター」である。わが海軍は相当強大であって、多数の艦艇と空軍を有していたが、米軍が「ラジオロケーター」を使用するようになってから、わが爆撃機や潜水艦は事前に発見され日本軍は急襲の優越性を喪失し、夜間でも米軍は日本海軍を発見し極めて正確に射撃を加えた。
 更に細かい原因を挙げれば、経済組織の悪かったことである。即個々の工業部門の業務を統制すべきであったがこれが遅れた。」

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