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【本】加登川幸太郎著『陸軍の反省 上下』

加登川幸太郎著『陸軍の反省 上下』についての紹介です。

1 本書について

加登川幸太郎著『陸軍の反省 上下』(1996)建帛社


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加登川幸太郎

加登川幸太郎:帝国陸軍軍人、戦史研究家

2 本書について

 著者である加登川幸太郎の三十年に及ぶ軍事史、陸軍史の研究の総決算ともいえる著作である。明治までは誇るべき業績のあった帝国陸軍は大正・昭和になるにつれて脱線し始め、愚行を重ねて最終的に国家国軍を衰亡の淵に追いやった。その根源を究明し、あらためて旧軍の行状を懺悔し、国家国民に詫びなければならないという境地で書き上げたのが本書である。
 本書の内容は「軍需生産能力の実情」、「教義」、「軍隊教育」、「政軍関係」、「将校論」、「戦訓」等多岐にわたり、かつ当時の関係者の証言やデータを用いており具体的である。著者は約20年の奉職間、満州、中国、レイテなどでの勤務、戦車学校教官、大本営勤務等を勤めるとともに、戦後の「偕行」の編集や数々の軍事書籍の翻訳等に携わってきた。

3 目 次

〈上巻〉
はじめに
第一章 日本陸軍の興亡の大観ー日本陸軍を嘆き、悔み、憤る
第ニ章 国防の台所ー作戦当事者国力を知らず
第三章 関東軍特種演習(関特演)ー軽忽浅慮 戦争の冒険
第四章 日本帝国存亡の決戦の緒戦ーガダルカナル
第五章 日露戦後の軍備増強
第六章 陸軍の派閥朋党の争いー「下剋上将軍」を生む 
〈下巻〉
第七章 ジリ貧の陸軍―軍縮、停滞、沈淪
第八章 満州事変とその後ー日本軍万里の長城を越える
第九章 暴支膺懲と事変の泥沼
第十章 帝国陸軍機甲部隊ー栄光少なく苦難多き生涯の追悼
第十一章 ノモンハン事件ー「敵を知らず、己れを知らず」
第十ニ章 「絶対国防圏」の戦いはこうだったー昭和十八・十九年を戦場に見る
第十三章 「レイテ」決戦とはこうだったー戦場に昭和十九・二十年を見る
第十四章 日本陸軍の終焉
終わりに

4.本書からの抜粋

〇 昭和天皇の叡慮に背き続けた帝国陸軍

 私が恐れ入ったのは、この(昭和天皇独白録)中で「敗戦の原因」について述べておられるところで、旧軍の軍人として脳天にひびく痛撃であった。「敗因の原因は四つあると思う。
第一 兵法の研究が不十分であったこと。即ち孫子の「敵を知り己れを知ららば百戦危うからず」という根本原理を体得していなかったこと。
第ニ 余りにも精神に重きを置きすぎて、科学の力を軽視したこと。
第三 陸海軍の不一致。
第四 常識ある首脳者の存在しなかったこと。往年の山縣、大山、山本のような大人物にかけ、政略の両略の不十分な点が多く、且軍の首脳者の多くは専門家であって、部下統率の力量に欠け、所謂下剋上の状態を招いたのである」
 この第一條の指摘が強烈である。軍人たちは何を習練していたのか、敵を知らず、己れを知らざるが故に国を亡ぼしたではないか、とのお叱りである。…陛下はこの時早くも日本陸軍をこのように断罪しておられたということを知って、私は言葉を失った。…この上は旧軍を深く省み、懺悔し、お詫び申し上げるほかはないと覚悟したのであった。(上巻1~2p)

〇 帝国陸軍は日露戦争の戦訓を誤って捉えた。

 陸軍は日露戦争に於て、装備に優れたロシア軍に勝った理由を討ねて、これを国民の愛国精神、軍人、軍隊の攻撃精神の勝利と断定した。そして突撃威力こそ、精神的威力こそ、物質的威力すなわち火力を凌駕し得るものとして、歩兵中心の戦法を奉じて疑わず、「日露戦争期型」の、やがては古物になる装備の師団の増設に狂奔したのであった。(上巻5p)

〇 帝国陸軍は新装備の開発よりも軍備増設を優先した。

 第一次大戦の終わった頃となると、日本陸軍は列強軍に比べ、相対的に二流、三流の国に成り下がっていた。…その状況は覚っていたのだが、すでに国力と軍備の調節を崩していたほどに肥大化した、旧式装備の全軍に就て、これを補正する力は陸軍にはなかった。…技術部門は兵器の創案、開発に遅れをとり、軍政屋は国家や軍の兵器生産力の増強など兵備の基盤の造成を怠り、一方作戦屋は、使える駒(兵団)の不足を歎き、軍隊の装備の向上というよりも旧式装備でも戦略単位(師団)の数の多いことをひたすら望んでいた。(上巻6p)

〇 陸軍は誤ったドクトリンの創造し普及した。

日本陸軍の装備の弱さの原因は、…日本軍独特と誇った「軍事ドクトリン」を作り上げ、「装備は悪くとも精神力で勝てるのだ」と、全軍に、やがては全国民に妄信させようと強調してきたことである。敗戦後昭和天皇様は、「軍は精神に重きを置きすぎて科学を忘れた」と強烈な御叱責を賜った。敗戦は人災である。その罪は、こんなドクトリンを作り上げ、歴代これを信奉し、軍隊にこれを強要してきた陸軍のエリート将校たちに在る。幼年学校に始まる陸軍の精神偏重教育が、装備軽視という亡国的怠惰をもたらしたものである。

〇 陸軍は下剋上の風潮を蔓延させ、政治への関与に躊躇しなくなった。

(長州閥と他国出身者の反発の)闘争の間に「下剋上」の風潮が醸成され、これが軍内に広く蔓延するに及んで、軍の指揮統制に対外を齎すに至った。…(満州事変後)この追い風の中で日本陸軍が大きく変貌した。慎みを忘れて、陸軍があちこちに出しゃばり始めた。軍の「本分」を遥かに超えた。...思い上がった陸軍は、皇国、皇軍と唱えて隣邦を蔑視し、唯我独尊、傍若無人が世人の顰蹙を買い遂には「政治干与」という大罪を侵し…「下剋上陸軍」の下僚の論議が国策を左右するに至った。(上巻6~8p)

〇 上級指揮官、参謀たちは近代戦に対して無理解だった。

 (ノモンハン事件に)大敗して第一に判ったことは、わが指揮官、参謀たちが、近代戦の理解に欠け、その指揮能力の低いことであった。エリートと自認する参謀たちは、近代化された軍隊の可能性を推測することが出来ず、その戦力判断は全くあたらず、飛行機、戦車の時代となっている近代戦の戦闘の様相とその兵站能力の強さをさっぱり理解していないのであった。(下巻122p)

〇 大本営は戦争に慣れ、その重大性を忘れ、緊張感を失った。

やがてわが統帥部は「作戦至上」の旗をふりかざし暴支膺懲を叫んで、国の存亡に拘わるでもない戦争を開始した。…さらに重大なことがあった。陸軍統帥部は相つぐ安易な戦争に慣れっこになり悪ずれして、戦争の重大性を忘れ、「兵は国の大事、危急存亡の秋である」という緊張感を失ってきたのである。軽々しく「戦争」を口にするようになった。

〇 帝国軍は日本を物的戦力の準備なく戦争に突入させた。

米軍総司令部兵器部長代理ケープ大佐
日本の兵器研究は戦争末期に至るまでいささかも進歩していない。研究の着想は見るべきものがあるが技術研究所は開戦当初の立上りが遅きに失し、新発明品の生産続行が困難であり、且つ、資材の逼迫は設計者及び生産者を悩まし続けた。日本の兵器生産方式は近代的工業国より十五年~二十年遅れており、且つ熟練工及び技師の数において不足していた。
 …日本軍首脳部は、物的戦力の主体たる兵器の担当者に計ることなく、もちろんその同意を得ずして、独断的に米英開戦を準備し、且つ、決行した。十分の兵器の整備を待たず、極言すれば物的戦力の準備なくして、無謀にも大戦に突入したのである。

〇 大本営には緒戦に対する備えがなく、戦機を見誤った。

又ひとつの奇怪極まる大本営陸軍部の戦争指導振りに就ての批判を加えねばならない。それは「大本営陸軍部はいかにこの大切な緒戦に備えていたか」ということである。それが、驚くべきことに、全く何の用意も、備えもなかったと言わざるを得ないのである。…重要な緒戦の指導を誤った根本は、大本営陸軍部が、戦争第一段の南方作戦の成功を以て、「大東亜戦争の一段落」と見做したことである。…『生死を課すべき戦争というものを軽く視るようになり…その他、米国に対する認識の欠如、軽視と、独伊の国力の過大視が加わって、主導権争奪のもっとも重大な戦機にあることを見失っていたのである。』(上巻14p)

5 更に理解するための3冊

1 半藤一利編『なぜ必敗の戦争を始めたのか』

2 加登川幸太郎『帝国陸軍機甲部隊』

3 加登川幸太郎『三八式歩兵銃』



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