人殺し

いつも通りの日常の筈だった。
2週間ぶりの連休だった。
ネットの情報なんて鼻から信用してなかった。
まさかそんな馬鹿げたことが、現実に起きてるなんて、夢にも思わなかった。


その夢にも見たことがない光景を、今見ている。

「おい、和也」


俺は目の前の息子に呼び掛ける。

和也は、廊下で仰向けに寝ている………正確には倒れているように見える妻の美沙希に覆いかぶさり、首元に顔を埋めながら何やら「グチュッ…ヌチッ」などと不穏な怪音を立てている。

美沙希は口が半開きのままにピクリとも動かず、瞳孔が開き焦点の合わない眼球で虚空を見つめている。

どう見ても事切れている様に見える。


信じたくなかったが、息子が妻を喰い殺している。


「お前…おい、何して」

自分の現実が有り得ない方向にバグってしまい、未だに状況を把握できない感度不良の脳みそを回転させながら、言語野から言葉を搾り出す。

こちらに気が付いたようにゆっくりと振り向いた和也の顔を見て俺は絶叫した。

何が起きている。何が起こっている。

和也の目は黒目が白内障の様に濁り、それでいて血走っている。口の周りは美沙希の鮮血で赤黒く染まり、血液と唾液の混じった糸を引きながら薬でハイになった中毒者の様なおぞましい声を上げた。

「あ゙ぁ゙ぅ゙あ゙あ゙ゔお゙ォ゙」

「何だおい!やめろよ!!」

変わり果てた息子に、もう何を言えばいいのか分からない。たどたどしい歩行ではあるが、しっかりと俺を認識し駆け寄っていると分かるそれは、もう別な生き物だった。その顔は幼子のように、無邪気な笑みを浮かべていた。

悪夢のような冗談だ。
冗談であってほしかった。


「うああっ、来るな!!」

「あ゙ハァ゙」


父親の威厳が微塵もない叫びと虚しい言葉は伝わらず、意思の疎通も不可能と悟る。

和也は美沙希の様に俺を喰い殺す気なのだろう。

俺の肩や腕に掴みかかり、唾液臭さと血腥さが漂う顔を近付けようとしてくる。
不思議なことに、和也からは柔軟剤や薬品の様な甘くドブ臭い強烈な香りも放っていた。

とてつもない生理的嫌悪感と恐怖に、冷や汗と鳥肌が全身の筋肉を固くする。


まだ16歳の高校生だがその力は異様に強く、まるで岩にでも襲われているようだった。

自分の腕や体に指が恐ろしく食い込み爪が刺さってきたが、それを気にする余裕は欠片も無かった。手を通して伝わる異常に低い体温にも、気が付かなかった。

「やめっ、離せって!おい!!」

体に力を入れなければ。逃げなければ。
息を深く吸い、一瞬に力を込める。
鳩尾を一点に押し、和也を突き放す。


逃げなければ。
脳裏に過ぎるのは美沙希の無惨な最期だった。
そう思った瞬間にまた信じられないものを見る。

「美沙希……おい、嘘だろ」

美沙希が起き上がっていた。
死んだはずだ。有り得ない。

和也が体勢を立て直すと同時に美沙希がこっちを見る。二人とも同じ笑みを浮かべながら獲物を前にひょこひょこと歩き出す。

何も考えず玄関の隅に防犯用に置いてあった棍棒を手に取った。



そこから先は覚えていない。




「うぅ……何で…どうして……」

ただ泣いていた。

俺は白状する。
妻と息子を、俺は殺した。

俺は人殺しになった。
家族を、この手で殴り殺した。


臨時ニュースをお伝えします。
現在、北海道や関東、関西、九州、甲信越の一部の地方において死亡した筈の人物が蘇生し、人を襲い始めるという事象が相次いで報告されています。政府はこれを国家の非常事態であるとし、消防丁、警察庁や自衛隊などと協力して事態の封じ込めを行う方針を発表しました。
なお、未確認の情報として蘇生した人物に噛まれるなどして重症を負った人が同様の行動を取るようになったという報告も多数上がっており、一刻も早くこの不可解で深刻な事態の解明と解決が望まれています。


つけっぱなしの朝のTVからニュースが部屋越しに聞こえてきた。

自分のパジャマに付いた返り血がまるで魚の鱗のように照り付く。


何もかもが俺にとっては遅すぎる報道だった。



TVが、ネット界隈で噂になっていた「ゾンビ化症」に関する陰謀論について公に認めたのは皮肉にもこれが初めてだった。

デマとされたネットで書かれていた内容はこうだ。

・昨年11月、一部の不明な投稿者がSNSを通じて「ゾンビ症」とタイトル付けされた動画や写真の一連の投稿を開始。

・内容は元気だった家族の妹の体調がみるみる崩れ、衰弱後にゾンビの様な振る舞いを始めて意思疎通が取れないこと。

・暴力行動が常態化したこと。

・他人に危害を加える為に部屋から出せず事実上監禁状態なこと。

・水や食料を与えても反応を示さず、音や人間だけに興味を示すこと。

・強烈な薬品のような体臭を発し、臭いを感じた後に家族が体調不良に襲われる等といったこと。

・噛まれた家族が同じ症状を発症したこと。

(※近場の精神科クリニックの医師を呼んだが対応拒否され、救急車を呼んだが救急隊員も対応出来ず、警察を呼ぶ事態となった。その後の本人の安否は不明)

その後は下らない炎上商法と思い調べもしなかったから流れは不明瞭だが、この投稿が流れた後に同様の事例を報告する投稿アカウントが増えた。


だが世間を賑わせたこの一連の騒動はマスコミや政府によって「デマ」と認定、報道され、国民は匿名の映像クリエイターによる作品や、現代アートであるとの結論で事態は収束したかに見えた。
その後は都市伝説ネタとしてしばらくネットを賑わせることとなる。

しかしその3ヶ月後、あるひとつの憶測が再びネットと世間を賑わせる。


これは国家や国民の生活と安全を揺るがす重大な事案であり、このゾンビ化症は実在する。
国はその将来的に破滅をもたらす様な危険を認識しながら事態を隠蔽し続け、発症者を非公式に国立の研究機関の療養施設や自衛隊病院に隔離しているのだ、と。



都市伝説は陰謀論となり、再び世論を揺らした。



その半年後に、これだ。
今度こそ完全に死んだ妻と子の隣で、後悔と絶望に生きる気力も無く俺は壁に背をかけていた。

身体が怠い。目眩と高熱に魘される。
頭が回らず吐いてばかりで動けない。

発症者の臭いから感染ったようだ。



外から呻きと悲鳴とサイレンがひっきりなしに聞こえてくる。段々と悲鳴が少なくなってきた。







あぁ、頼む。
俺を殺してくれ。


誰かこの人殺しを、殺してくれ。

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