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◆折山敏夫さんの再審請求事件全容。遺体は誰?自白供述調書なしの検事調書(マムシの善三元検事)による捏造、冤罪事件が立証されたら?

折山敏夫さんの再審を支援する会

◆折山敏夫さんの再審請求事件

 折山さんと私との出会いは、ヤフーblogで冤罪を訴えていた折山さんからのご連絡でした。その時には、一人で闘っておいでました。第一回再審請求も当事者訴訟で、一人で文書を作って出したとのことです。
 当時、その資料を見ても、あまりにも膨大な資料なので、全てに目を通すことはできませんでした。写真のネガがおかしいということと、自白の供述調書もなしに、検事が、折山さんが自白したという検事調書を作って、裁判で行使したということに不平不満を述べているということはわかりました。さらに、死亡しているとされていた肝心かなめの田園調布の富豪は、その後も生きているところを目撃されているという3点が気になりました。遺体発見後も生きていたとなれば、被害者とされる遺体と田園調布の富豪、佐藤松雄さん(当時56歳)とは別人の遺体ということになります。佐藤さんの歯科医でのレントゲン写真と遺体のレントゲン写真の一致が偽造されていると折山さんは主張します。これを検察が捏造していたとなると、問題ですが、当時の歯科医のレントゲンと遺体のレントゲンとの再鑑定という道が開かれない限り、立証は不可能です。なぜ、再審請求において、これらの申し立ては、検証されないのでしょう?公益の代表者がそんなことをするはずがないという前提条件と信念体系が裁判官の内側から取り外されない限り、これら冤罪事件の検証に道は開かれないのだろうと推察します。
 冤罪事件の再審請求は長丁場になります。この世間からの冷たい視線に堪え切れるかどうか?が道を分けるので、どうか、理解者が増え、支えてくださる方が現れますようにとお祈りしたことを覚えています。

 折山さんからはきれいな字の年賀状をいただいたことがあります。このご丁寧なご挨拶ができる人柄、元経営者であられた人格という点などからも、折山さんと陰謀を働いて残酷な殺人事件を起こす人物像とが一致しないという印象を持ちました。折山さんの目をみると、透き通っているので、彼が嘘をついているとはとても思えません。私は、彼の訴え出ている状況証拠から、彼の冤罪を確信するようになりました。その後、福島瑞穂さんと海渡弁護士が彼からの話しを聞き取って、再審請求事件としての関わりを深めてくれていることをネット上で目撃して、安堵したという経緯です。二回目の再審請求について、弁護団の海渡雄一弁護士が立ったことが記されている。今は、小竹広子弁護士への委任という状況のようです。

56分~ 折山敏夫さんの再審請求事件の詳細
自白の供述調書はとられていないのに、検事による調書が捏造され、裁判で行使された。折山さんが死体遺棄したと供述した場所から、5年前の身元不明の遺体が発見された。それが、Sさんだったとされた。
これは、秘密の暴露であり、犯人しか知らない情報なので、折山さんが犯人と特定された。
しかし、Sさんは失踪後も生きていた証拠がある。5年前の身元不明遺体は
Sさんではなかったという疑いがある?
歯科レントゲン写真が検察によって、偽造されている疑い。についての検証が必要不可欠。

「S氏を中洲のホテルにて殺害し、その後、近くの雑貨屋で段ボール箱を購入して、死体を梱包し、段ボールをホテルの玄関まで運び、レンタカーに積み、杉林に遺棄した。って、折山が涙を流して自白したんですよという自白調書が裁判で行使された。これは、折山さんに言わせると、佐々木善三元検事(現代弁護士)であって、事実無根。公益の代表者として、有名な第三者委員会の委員も務めるような人が、検事時代に、このような冤罪を引き起こすような不法行為をしていたことが立証されたら、日本社会の刑事司法のありように関して、根底からの見直しが必要であるという光が投じられるのではないでしょうか?この調書は、捏造調書なのか?それとも、折山敏夫さんが嘘つき村の人間なのか?この田園調布の富豪、佐藤松雄さんの殺人事件の警察と検察の捜査の在り方に関しては、社会からの監視の目を光らせる重大事件であると感じます。

 佐々木善三元検事による捏造調書が立証されると、彼が公益の代表者として、選任された、舛添要一事件、小渕優子事件、東京電力第三者委員会の委員としての職責に問題があったとの指摘と符合すると感じるのは私だけでしょうか?

折山敏夫さんは、代用監獄に136日間拘束された。

私は、これらの冤罪の問題解決のために、シャバット・ジャーナリングを社会全体に広げることを試みています。

「取り調べで涙を流して殺人を自白した」 調書なき異例の「自白採用」は冤罪だったのか? 検察官が証言した“不都合な真実”とは

田園調布殺人事件は冤罪だったのか #1

「家族がいまどう暮らしているかも分からない」 20年間の服役を終えた男性が訴える、40年前の“冤罪事件”と“調書なき自白”

田園調布殺人事件は冤罪だったのか #2

茫然自失でサインしたら「懲役20年」 元受刑者が無実の罪と主張する「折山事件」の疑問点

2024年1月29日 

うその自白を強制・誘導された上、検察官の法廷での偽証によって「無実の罪を着せられた」と主張する男性がいる。1980年に東京・田園調布の男性資産家を殺害したとして、殺人罪などが確定し、懲役20年に服した元受刑者の折山敏夫さん(80)。直接証拠はなく、自白と法廷証言が有力な証拠とされたが、「遺体が被害者とは別人の可能性さえある」と弁護団は再審を求めている。疑問点の多い「折山事件」を振り返る。(西田直晃)

◆犯行場所も手段も「確定判決」で変わった

 〈Sさんと二人で太宰府(福岡県)の近くの山中の小川に行きました。(略)首にロープを巻きつけ締めつけました。するとSさんは静かになったので死んだと思い…〉

 警視庁に逮捕された折山さんが唯一、捜査4課の刑事に殺害を自白したとされる供述調書だ。ところが、確定判決では場所も、犯行手段も異なる〈福岡市博多区のホテルで、鈍器で後頭部を数回強打〉に様変わりしている。いずれも弁護団は「事実ではない」と主張しているが、まず、なぜこんなことが起きたのか。 

「検察官の『私の前で涙を流して自白した』という法廷での証言のためです。供述調書はないのに、全くの作り話が本人の自白として採用された」。そう憤慨するのは、再審弁護団の小竹広子弁護士。取り調べを担当した検察官が一審公判で述べた「博多のホテルで殺害し、近くの雑貨屋で段ボールを購入し、死体を梱包(こんぽう)した。ホテルの玄関まで運んでレンタカーに積み、杉林に遺棄した」といった内容だった。

 この折山さんの”自白”は検察官自身が「(折山さんが)細部を覚えておらず、後に自供を撤回した」として、調書を取っていない理由も説明している。物証も目撃証言もない。小竹弁護士は「こんなことがまかり通るならば、冤罪(えんざい)が生まれ放題になってしまう。あり得ない」と語気を強める。

◆「どうしても調べてほしいなら…」交換条件を示された

 「他にも不審点が多い」と小竹弁護士が語る事件の概要はどんなものか。

 確定判決は殺害の時期を80年7月とした。折山さんが逮捕されたのはその5年後のことだ。80年当時、折山さんはSさんと一緒に不動産や飲食の事業を展開していたが、失踪したSさんの豪邸を売却し、Sさんが所有する不動産の名義を変更するなどし、警視庁が「財産目的の殺人」とみて捜査していた。

逮捕当初から折山さんは否認していたものの、5年前の記憶をほとんど思い出せなかった。当時の新聞記事などでは、あいまいな供述を続けていたとも報じられている。「脅しを含む連日の追及で、捜査員の顔色をうかがいながら、迎合したり、こびたりし、その場しのぎの話を作り上げる必要に迫られていた」(小竹弁護士)という。

 その後、接見した弁護士による妻の伝言から「80年7月25日にSさんと博多に行った」と思い出し、自身のアリバイを証明するつもりで供述した。裁判資料によると、捜査当局は当初、東京都内での殺害を想定しており、折山さんは「九州の話はしない」という誓約書をいったん書かされたことが分かっている。

 だが、警察官から「どうしても調べてほしいなら、『Sを福岡の山の中に埋めてきた』とでも言え」と、福岡での捜査と交換条件を提示されたという。小竹弁護士と折山さん本人によると、福岡での捜査で無実が証明されると信じ、折山さんは遺体を遺棄した虚偽の自白を始め、警察官の言い分に沿った調書にサインした。その数日後、検察官の誘導で遺棄現場の地図や図面を作成し、言われるがままに丸印を付けた。

◆供述や作成した地図が「秘密の暴露」と認定された

 その後、福岡の出張捜査を終えた警察官から「示した場所からSさんの遺体が見つかった」と折山さんは聞かされた。「そんなことがあるはずがない」と思いつつも、刑事たちに理詰めの説得を受け、われを失ったまま冒頭の自白調書にサインしたという。数日後の検察官の取り調べの際には、後に法廷で証言した内容を語ったことにされた。4度目の逮捕で初めて殺人容疑となり、身体拘束90日目に殺人罪で起訴された。

 警察、検察はこの遺体を歯型や歯の治療状況からSさんの遺体と断定。確定判決では、遺棄した場所に関わる供述、作成した地図や図面が真犯人しか知るはずがない「秘密の暴露」と認定されている。

ただ、小竹弁護士は「遺体は1980年8月にすでに見つかっていた。警察は先に把握しているはずで、秘密の暴露には当たらない」と強調する。実際、80年8月13日、遺体は太宰府市に隣接する筑紫野市の杉林で発見されており、福岡県警の捜査本部事件として、地元紙などで遺体の状況も含めて報じられていた。「身元不明遺体の存在を前提に折山さんの自白を誘導した」と小竹弁護士は語る。

 さらに、弁護団は「Sさんと同一だとされた遺体は別人の可能性がある」と訴える。歯型が厳密には一致しておらず、通常審で検察側が証拠として提出したSさんの歯のエックス線が、本人のものか疑わしいためという。

現在、第3次再審請求中のこの折山事件。弁護団は年齢が「56」から「57」に上書きされた8月生まれのSさんの日記帳、Sさんから豪邸の売却を任された折山さんが作成した経費の明細書といった「80年7月以降のSさんの生存を示す」(弁護団)複数の新証拠を提出している。

 また、折山さんの注意欠陥多動性障害(ADHD)の診断書も提出した。逮捕当時は日本でほとんど認知されておらず、折山さんの供述に顕著なうそや変遷を「ADHD特有の衝動性や多動性に起因する。密室での長期の取り調べにより、苦し紛れの自白をせざるを得なかった」としている。

◆「でっち上げられた」遺体も被害者とは別人と主張

 現在、第3次再審請求中の折山敏夫さんは「私は自白していない。殺人事件をでっち上げられた」と主張している。
 折山さんは79年、Sさんと知り合った。裁判資料などによると、Sさんは飲食業や貸しビル業を営み、多額の預金があった。家族は離散し、親しい知人は皆無だった。躁鬱(そううつ)病の持病があり、自殺未遂を繰り返し、各地の旅館を転々としていたが、80年7月下旬以降に目撃証言がなくなっていた。

 折山さんは「一緒にやればもうかると思い、共同経営者として付き合った」と回想する。確定判決では、Sさんが貸し付けの約束を守らず、折山さんが経営する不動産会社が小切手の不渡りを出したことで「対立があった」とされ、Sさんの失踪後に豪邸が売却された事実などを「乗っ取りとも評しうる方法で処分している」と指摘された。折山さんは「豪邸は当時、税金滞納で仮差し押さえの状態にあり、本人から売却を依頼されていた」と説明し、不渡りについては「自分の会社を潰(つぶ)し、Sさんとの共同事業を本格化するためだった」と話している。

 確定判決が犯行時期と認定した80年7月24〜25日の行動については、「25日朝に飛行機で東京から福岡に向かい、Sさんと合流し、太宰府の山中で山林の値踏みを頼まれた。その後は博多で別れ、電車で向かった広島で1泊し、26日に東京に戻った。犯行現場とされた博多のホテルには行ったことはない」。Sさんとは「81年になっても会った記憶がある」と語り、確定判決で認定された遺体は別人だと訴えている。

◆デスクメモ

 捜査機関の胸三寸で罪に問うかどうかが決まってしまう。それをつい最近、目の当たりにしたばかりだ。やってないという供述を「はいそうですか」と素直に聞く場合と、実際には言ってない供述でも作ってしまう場合。こんな不均衡があっては、司法への信頼感は崩れ去ってしまう。(歩)

茫然自失でサインしたら「懲役20年」 元受刑者が無実の罪と主張する「折山事件」の疑問点:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

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前略、冤罪の構造的暴力の問題解決のために、コンテンツを作っているところです。そこで、私は、警察、検察、裁判所の裏金問題に詳しいので、その詳細についてのアーカイブをお伝えします。 https://stand.fm/episodes/66d6a217ec4d131f8a89c784 
郷原さんへのインタビューで「マムシの善三」さんについての内容

を拝見しました。郷原さんは、東京地検では交際費に困ることがなかったと発言しています。会計検査院では交際費は認められていません。つまり、郷原さんの体験は、裏金運用による実態があることを証明する発言になります。 
東京地検の裏金の状況を立証したい。
また、私が最も問題意識を持っているのは、Sさんが、公益の代表者として最も相応しくない人物であるという実態の立証です。           再審法改正を目指す市民の会でも取り上げられていますが、https://www.youtube.com/watch?v=2JOutfnG9h4              56分~折山敏夫さんの冤罪事件において、不法行為による自白調書が行使されたとの証言があります。ここに注目してください。この捏造証拠の立証ができれば大きいです。Sさんの嘘や論理矛盾を掘り下げたい。

私は、これらの冤罪の問題解決のために、シャバット・ジャーナリングを社会全体に広げることを試みています。

(「人権と報道」連絡会ニュース 2018年11月15日(第333号)より転載)
折山敏夫さんの再審を支援する会の発足の際に、小竹広子弁護士が報告した内容です。


◆遺棄場所は「秘密の暴露」? 
折山さんは5年前の事件を追及されて85年7月、逮捕されました。警察は、当時、不動産仲介業を営んでいた折山さんがS氏を殺して豪邸を知人に売り払い、口座から頭金を引き出すなどしてS氏の事業を秉っ収ろうとしたとの疑いをかけました。マスコミは、S氏が田園調布に豪邸を所有していたという点にスポットライトを当て、「田園調布の資産家失踪/豪邸を勝手に転売/殺害の疑いでも追及」、「不明5年、家や店転売/預金も500万円引き出す」などと大報逆しました。しかしS氏は、噪うつ病で、よく突然いなくなり、放蕩しては突然現れることを繰り返し、一家は離散状態。豪邸の税金を滞納して税務署からは仮差押を受けるなどして、事業経営は破綻しそうになり、共同経営を約束していた折山さんはその対策に追われていました。

 
裁判では、折山さんがS氏の印鑑証明を取り、S氏の実印を使っていろいろと書面を勝于に作成したと認定。博多のホテルでS氏を鈍器で殴って殺し、太宰府近くの山中で遺体を棄てたとされました。しかし、直接の証拠はありません。折山さんと犯行を結びつけるものとして、次の3点が挙げられています。

 
まず、折山さんが遺体を棄てたと供述した場所から身元不明遺体が発見され、その遺体がS氏だったということ。これが真犯人しか知りえない「秘密の暴露」に当たるという点です。2点目は、折山さんがS氏の失踪直後から実印と印鑑登録証を持っていたとされていることです。3つ目は、収調べで折山さんが白白したと述べた検事の佐々木善三の法廷供述です。しかし、遺体は、逮捕の5年前に発見されていたもので、警察は遺体の存在を知っていました。折山さんの供述経過からも「秘密の築露」ではありません。2点目は、折山さんの自白に基づいています。けれども、白白は嘘をでっち上げられたものです。3つ目もまったくの佐々木検事による虚偽供述です。


◆死亡覆す多数の証拠

折山さんと我々弁護団は、S氏は犯行日の後も生きていたと主張しています。犯行日は80年7月24日、または25日とされていますが、折山さんには豪邸を売った81年2月ごろまでS氏と会っていたという記憶があります。 犯行日後も生きていたことを示す新証拠に、封筒に記された手書きのメモがあります。この封筒には、ある取引を巡って、S氏が80年7月30日にY氏に1千万円を貸し出した事実を示す「7/30 貸し」とのメモがS氏の手書き文字で書き込まれています。 また、S氏が使っていた旧記帳に、自分の名前や住所、年齢などを記入する「おぼえ」という欄があり、年齢欄の「56」を「57」に書き直していることか分かります。S氏は23(大正12)年8月12日生まれで。57歳になるのは、80年の8月12日です。S氏は殺害された後、誕生日を迎えて年齢を書き直したということになります。 さらに折山さんの当時の妻が弁誕士と電話で会話した内容の録音テープが今、我々の手元に残っています。

 
テープには「紅葉が湖にうつるのがすばらしいとかいう、電話をもらってるのも、前の年だとしたら、私は、まだ会ったことないんですよね」と録音されています。「紅葉が湖にうつるのがすばらしい」と、妻が受けた電話で、S氏が語った言葉です。妻がS氏と初めて会ったのは、79年の年末か80年の初めごろでした。79年の秋にはまだ会っていません。紅葉があるのは秋です。そうすると、S氏からの電話を受けたのは、80年の秋以降ということになります。殺害したとされる7月24、25日では、まだ秋を迎えていません。


ほかにもS氏が生きていたことを示す証拠は多数あります。

◆アリバイ逆手に供述誘導

太宰府近くの山中で発見された自骨化遺体がS氏のものだとする最大の証拠は、歯科レントゲンの写真です。 S氏は生前、I歯科医の治療を受けていました。I医師は、レントゲン写真を警察に任意提出しています。一方、遺体の頭蓋骨からもレントゲン写真が撮られています。 讐察は、失踪したS氏は殺されたんじやないかとの疑いを抱き、80年1月25日には既にI医師からカルテやレントゲン写真のフィルムの提供を受けています。これらはコピーして3月にいったん現物をI医師に返しています。折山さんが逮捕された直後の7月20日、警察は再び、フィルムを提供してくれと、I医師を訪れています。そのとき、左右を間違えないように赤いマジックで、右、左と記入したと、I医師は法廷で証言しています。折山さんは取調べの当初、東京でS氏を殺したと追及を受けました。折山さんは否認していたのですが、妻は折山さんが犯行日とされた当時、S氏と一緒に博多に行っていたことを思い出しました。


そこで折山さんは、福岡での足取りを調べるよう取調官に頼みます。 しかし、それを逆手に取った取調官は、福岡の山の中にS氏を埋めたと言えば。捜査に行かざるを得なくなると、折山さんを責め立てました。折山さんはアリバイを調べてもらうには、嘘の供述調書を作るしかないと思い始めます。そして、福岡の山の中でけんかになり、S氏が小川で転んだので置き去りにしたとか、呼ばれてホテルの部屋に入ってみたらS氏が死んでいた、だから山中に運んで棄てたといったような、いろいろな内容の供述調書が作られていきます。取調官からは、置き去りにした小川はどこかと、地図上で指し示すよう要求されます。検事調べでも検察官から、より詳細な太宰府地域の地図を示され、折山さんが3ヶ所に○をつけた地図が残っています。相当、警察、検察による誘導があったと思われます。

◆すり替えられた証拠写真

一方で警察は折山さん逮捕後の8月27日。白骨化遺体の歯並びを見た福岡のK歯科医にS氏のレントゲン写真を見せ、遺体と一致するとの調書を作成しています。同じ27日には、東京の1医師を再度、S氏のレントゲン写真を持って訪れます。 当初、遺体と一致しないと言っていたI医師は、写真の左右が逆ではないかと警察から言われ、反転させれば一致すると、徐々に誘導されていきます。

 
折山さんは取調官から、お前が話した場所から遺体が見つかった、レントゲン写真が一致したと言われます。S氏は5年前の7月に死んで、遺体がその年の8月に白骨状態で発見されたのだから、それ以降に印鑑証明書が出ているのは、お前が取得した以外に考えられないと追及されます。

 こうして、S氏の実印を預かっていた。それを使って印鑑証明書を取得して取引を行ったのだから、おまえが殺したのだとの虚偽の「自白」ストーリーが作られていったのです。レントゲン写真を巡っては、すり替えられたのではとの疑惑があります。


I医師は、一審の86年2月18日の法廷で、自分か赤のマジックでフィルムに右、左と書いたと証言しました。7月20日に任意提出したときに、左右を間違えないように書いたと、裁判所の調書に残っています。 ところが上告審段階になって、当時も弁護人であった再審請求の弁護団の湯川二朗弁護士が、裁判所に保管されていた証拠のレントゲンフィルムを見に行って写真を撮ったのですが、赤で右左とは書かれていませんでした。黒い字でLとRの文字が書がれていたのです。 警察は最初に任意提出を受けた際、フィルムをコピーしています。85年8月27日には福岡でK医師に、そして東京でもI医師に見せています。


レントゲン写莫には複数のコピーが存在しています。その一部を作り変えたり、改ざんしたりした可能性は十分にあります。 公判中、検察官は裁判所に提出した証拠であっても借り出すことができます。そのときにもすり替えるチャンスはあったんじゃないかと思います。
◆検察官証言で自白認定

この事件では、ものすごくおかしなことがもう一つあります。 判決では、博多の中洲のホテルで殺し、近くの雑貨屋さんでダンボールを買って、死体をダンボールの巾に入れてレンタカーで運び、太宰府の杉林の中に棄てた、との白白があったと認定されました。しかし、折山さんは、そんな自白調書は取られていません。佐々木善三検事が自分の前で折山さんが涙を流してそう言ったと供述しただけです。


それを裁判所は、折山さんがそう白白したと認定したのです。 被告人が私の前で自白したと検察官が言えば、それで白白したことになる。こんなことを許したら大変なことになります。 ほかにも多くの問題かあります。折山さんは代用監獄に136日間も拘束されました。弁護士との接見時間は20分だけ。取調べでは、怒鳴る、机を蹴るなどの暴行を日常茶飯事のように受けました。 

折山さんは無実です。ご支援をお願いします。

第20回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

2009年12月18日9:00AM|カテゴリー:書庫|admin

修復的正義は機能しないのか
~高知県警白バイ事件の真相究明を求める~ 

 山下由佳

(財)高知県国際交流協会

2002 世界の笑顔集まれ◆おぴにおん
「高知・コスタリカ友好交流を創って行く会」
          山下 由佳


#アンネの法則の山下安音です。私のライフワークは、平和学研究とピースメディア。VISGOのプロデューサーに就任により、完全成果報酬型の教育コンテンツと電子出版に、専念することになりました。udmyとVISGOへ動画教育コンテンで、世界を変える。SDGs3,4の実現に向けて一歩一歩