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◆秋月平和賞◆『死の同心円』◆アンゼラスの鐘 ◆造血作用を持つ食養生◆被爆体験証言の継承が世界平和を実現する


秋月辰一郎医師は、原爆が落ちたときみんなに言いました。
「食塩、ナトリウムイオンは造血細胞に腑活力を与えるもの、砂糖は造血細胞毒素。玄米飯に塩を付けて握るんだ。からい濃い味噌汁を毎日食べるんだ。砂糖はいかんぞ!砂糖は血液を破壊するぞ!」
 
原爆投下から3日目、焼け落ちた浦上第一病院跡に本原救護病院が設けられることになりました。 しかし救護所とは名ばかり、応援の医師も薬も医療器具もないまま、300人の重傷被爆患者が29歳の秋月医師の手にゆだねられました。

「一番に逃げ出したいと思いました。しかし従業員は逃げないし、怪我人の半数は自分の顔見知りでした。 自分は独身で身軽だったし幸い怪我もなかった、だから人のためになりたいとは思いましたが、薬もなく自分がいても治療が出来ないのですから、 もしここが知らない所だったら、こそっと逃げ出したかもしれません。薬も何もないのに患者の治療をするというのは、医師として非常に苦痛です。 だから本心は毎日逃げ出したいと思いながらとどまっていたのです。 私が医者になったのは、身体が弱くて自分で病気を治したかったからですが、それが医者になってからは、当直もずっとやるし、なぜか病人から離れられなくなっていました。 「(医は)仁術(医療は慈愛とおもいやり)」といいますが、例え治療しないでも、医者や看護婦がベットの側にいるだけで患者が安らぐ、 そういうことも実感してきましたから、やっぱり患者を置いて行けませんでした。「先生、先生」と頼られれば、そこを離れるわけにはいかなかったのです」。 ロウソクの灯りを頼りに、火傷には油を筆で塗り刺さったガラスはピンセットで抜き、あればマーキュロ塗る、それしか手当できませんでした。

爆心地から本原の丘へ迫ってくる死の同心円に怯えながら、秋月さんは被爆者の手当てを続けました。 8月15日、日本はポッダム宣言を受諾、無条件降伏して戦争は終わります。 「全身火傷、泣き叫ぶ子ども、家は焼かれ、もう戦う者の姿じゃなかったです。 だから敗戦でほっとしました。同時に、偉い人が、こんなになるまでどうして戦争をやめることが出来なかったか、遅すぎたという感じがしました。 悔しいとか悲しいというより、こうなってむしろ当然という気持ちで、「終戦の詔勅」を皆に読んで聞かせた時に、敗戦で悲しいけれどこれ以上苦しむことはないだろうと言いました。 これだけ火傷をさせて苦痛を与え、これだけの死者を出して、勝つも負けるもありません。その後日がたつにつれ、 治療した人数とか、ひどい爆傷の様子、実際の何万分の1ぐらいではありますが、医者の自分の目で見たこと、経験したからこそ言えることをぜひ記録しておきたいと思う様になりました。 科学的にも学問的にも、あの40日間に起きたことはもう真黒で、自分やお互いが見た、という以外は何の証明もない、だからこそ忠実に記録しておきたいと思ったのです。 原爆投下の1年前から3年間、私は1日もここを離れたことがありません。病院のベットから見る窓の外は、当時被爆者がぞろぞろあがってきた方角ですし、 日曜日の朝の礼拝でお祈りしながら横を見れば、あの時治療に来た人の家族がいっぱいそばにいる、あの時と同じ場所にいるから書けたのだと思います」。

「身体も強くない信念もない私が、病院を作って、そこになぜ留まろうと決めたのか自分でもわかりません。 ただみんな何かを背負ってると私は思うのです。この付近にたくさん倒れていた人が、私を後ろから押しているような感じ、 そういうものがこの世に存在するのかわかりませんが、医学の進歩した手術室の中にいながら、 今でもあの時黒焦げになって道端にごろごろごろごろ死んでいた人とが二重写しになります。 患者と一緒にここで暮らすという人生は、それは非常に重荷ですけれど、それが自分の歩む力になる、背負っていくというより背負わされている感じ、 私にとって不幸なことだけど、それを置いていくことが出来ません。無理に忘れることをやめて、背負いつつ人生を生きていこうと決めたのです。 大勢の被爆者を前にして私は逃げなかった、あの時の心と今と同じなんです。病院に壊れた石垣がありますが、 この前夜中にそこを歩いていたら、自分の靴音が石垣にはね返ってグウグウって変な音をたてました。そこはあの時、 怪我人がいっぱい上がって来た場所です。この世のものとは思えない音、石垣がグググっていってるのか、 1つ歩くとグググっていう、それからはっとして、これは人のうめき声みたいだと思いました。 普通ならそんな音を聞くのは嫌ですが、その時は行ったり来たりしながら耳を傾けました。今度表彰されるのも、 こういう重荷というものに共感していただいたからだろうと思います」。

放射能を避けるための食事
これは、放射能性物質限定の話ではありません。
体調を保つための基本的な方法です。癌などの食事法としても応用できるということですね。

秋月辰一郎医師は、原爆が落ちたときみんなに言いました。 「食塩、ナトリウムイオンは造血細胞に腑活力を与えるもの、砂糖は造血細胞毒素。玄米飯に塩を付けて握るんだ。からい濃い味噌汁を毎日食べるんだ。砂糖はいかんぞ!砂糖は血液を破壊するぞ!」  ...

Posted by 甲斐 由美子 on Thursday, January 18, 2018

平和運動に功績があった人を長崎市の市民団体が表彰する「秋月平和賞」のことしの受賞者に、いずれも被爆者で平和教育に取り組んだ元小学校教諭の城臺美彌子さん(85)と、被爆者団体で長年、相談員を務めた横山照子さん(82)の2人が選ばれました。

「秋月平和賞」は、みずから被爆しながらも被爆者の治療にあたった長崎の医師、秋月辰一郎さんをたたえて長崎市の市民団体が2008年に創設しました。

平和運動や被爆体験の継承に功績があった人を毎年、表彰していて、ことしの受賞者にはいずれも被爆者の城臺美彌子さんと横山照子さんが選ばれました。

城臺さんは6歳で被爆し、小学校の教諭として38年にわたり平和教育に取り組み、退職後は自らの体験の講話や被爆遺構を案内する活動を続けています。

4歳で被爆した横山さんは、被災協=長崎原爆被災者協議会で相談員をつとめ、長年、被爆者の健康面での支援にあたりました。

現在は、被災協の副会長を務めています。

審査をした委員会の朝長万左男委員長は「城臺さんは平和教育を長く続け、横山さんは被爆者団体で初期から活動してきた。それぞれの功績は大きい」と話しました。

秋月平和賞の授賞式は今月15日、長崎原爆資料館で行われます。

ことしの「秋月平和賞」城臺美彌子さんと横山照子さんが受賞|NHK 長崎県のニュース


#アンネの法則の山下安音です。私のライフワークは、平和学研究とピースメディア。VISGOのプロデューサーに就任により、完全成果報酬型の教育コンテンツと電子出版に、専念することになりました。udmyとVISGOへ動画教育コンテンで、世界を変える。SDGs3,4の実現に向けて一歩一歩