シベリウスの5番を聴いたよ

 今回はシベリウスの交響曲第5番の話だ。「聴いたよ」などと言ったところで、私はもう二十何年も前から5番は聴いている。何せ、かの有名な交響曲第2番のカップリングと言えば5番が大の定番だからだ。

久々に買った楽譜

 私の趣味は楽譜を手に音楽を聴くことだ。こう言うと格好よさそうに聞こえるかもしれないが、全くの受け売りで、もちろんスコアリーディングなどできるわけがない。
 あれはもう20年以上前の話になると思う。私は一時期だけ札幌に住んでいたことがある。日曜の夜といえば『N響アワー』であり、当時は池辺晋一郎先生と檀ふみさんが出演されていた。当時、私はクラシックに首を突っ込み始めたくらいの頃で、交響曲や協奏曲など、聴き始めるのはずっと先のことになるだろうなと思っていた。
 ショスタコーヴィチの交響曲第5番の回。ゲストはフリージャーナリストの江川紹子さん。彼女はショスタコーヴィチの5番のポケットスコアを持ってスタジオに現れ、楽譜を見ながら音楽を聴くのが趣味だ、とおっしゃっていた。池辺晋一郎先生も「美しい音楽は楽譜も美しいんですね」と応えておられた。
 それから間もなくして、ショスタコーヴィチの第5番のCDを買い、楽器店に行って楽譜を買った。
 それ以来、交響曲や協奏曲も聴くようになったし、楽譜を目で追いながら音楽を聴く楽しみを折にふれて味わうようになった。
 日本国内の会社からは出ていない楽譜もあって、輸入物の楽譜を買い求めるとびっくりするような値段がつけられたりしていたものだったが、シベリウスといえば当時輸入物ものの楽譜しかなく、やっとの思いで交響曲第2番と交響曲第1番の楽譜を買ったものだ。

 ここ最近は資格試験の勉強が忙しく、ゆっくり音楽を聴く暇もなかったのだが、試験が終わるころを見計らってシベリウスの交響曲第5番の楽譜を買い求めることにした。1番~4番までは楽譜を既に持っていたのだが、聴く機会が若干多い割に5番が後回しになっていたのだ。

シベリウス 交響曲第5番

 コロナ禍でコンサートが軒並みつぶれたあの時期が明けるころ、札幌交響楽団から定期演奏会のチケットを頂いた。公演中止が相次いでいた中で財政が逼迫していた札幌交響楽団に妻が寄付をし、返礼品として頂いたものだった。
 そのコンサートが指揮にフィンランドからピエタリ・インキネンさんを迎えた第643回定期演奏会だった。新千歳に海外からの渡航がようやく再開されたころで、インキネンさんがNHKのニュースでインタビューされていたのを覚えている。
 そのとき演奏されたシベリウスの交響曲第5番がとても素晴らしかったのだ(評論家には不評だったが)。それまでシベリウスは生でたくさん聴いてきたが、おそらく今までで一番と言ってもいいくらい、素晴らしい演奏だった。
 それから、BSテレ東で土曜の朝に放送されている『エンター・ザ・ミュージック』に出演されている指揮者の藤岡幸夫さん(渡邉暁雄さんのお弟子さんに当たる)が、「僕がすべての交響曲の中で一番好きなのはシベリウスの5番で」と、その音楽の素晴らしさを語っておられたのを知って、これはいつか「しっかりと」交響曲第5番を聴かねばなるまいと思っていたのだが、勉強の忙しさになかなか音楽を聴く時間を取れずにいたのだ。

 それがこの度ようやく、楽譜も買って、休暇まで取って(!)、シベリウスの第5番に向き合うことにしたのだったが……もう控え目に言って最高なのだ。第1楽章の終わりのあの煌めき。第3楽章の、銀のリボンから続く壮大な音楽の波。満足感が半端ではなかった。休暇を取っただけの甲斐があったというものだ。多めのトレモロとシンコペーションでついていくのには苦労したが……。

J.S.バッハ G線上のアリア

 実は今回、もう1冊楽譜を買い求めた。J.S.バッハの、『管弦楽組曲第3番』だ。『G線上のアリア』を聴きたかったのだが、アマゾンで『G線上のアリア』の楽譜を買い求めようとするとピアノの楽譜などが出てきてしまい、普段聴いている弦楽版の楽譜に行き当たらない。
 調べてみると、『G線上のアリア』とは、『管弦楽組曲第3番』の第2曲「Air(エール)」をヴァイオリニストのアウグスト・ウィルヘルミがピアノ伴奏つきのヴァイオリン独奏のために編曲したものなのだそうだ。だから、弦楽版のものを買おうとすると、『管弦楽組曲第3番』の楽譜を買わねばならないらしい(厳密に言えば、普段聴いていた曲は『G線上のアリア』ではなかった)。

 『管弦楽組曲第3番』の楽譜を買ったのだが、届いてみると表紙には「Ouvertüre D-Dur」の文字が書いてある。ドイツ語が読めなくても「序曲」であることくらいはわかる。その下に「Orchestral Suite in D major」とある。これは英語で「管弦楽組曲ニ長調」だ(管弦楽組曲といえばバッハの第3番を指すものらしい)。嫌な予感を感じつつ楽譜を開いてみると、ちゃんと18ページ目に「Air」という曲が載っていた。なぜ表紙に「序曲」と大書されていたのかはわからないが……。そして19ページ目はというと、「Gavotte I alternativement」と書かれている。「Air」はたった1ページの曲だった。
 なるほど楽譜を目で追いながら聴いてみると『G線上のアリア』だ。1~6小節が前半で、反復記号と6小節目は1番かっこと2番かっこが付いている。7~18小節も反復記号でくくられていて2回演奏されて、18小節で6分程度の曲になるらしい。

 この楽譜は簡単だ。曲もゆったりとしているし、ついていけなくなることはない。ページをめくる必要もない。それゆえ、わずか18小節に美の極致を表現したJ.S.バッハの偉大さを感じずにはいられなくなる。
 私はチャイコフスキーと、シベリウスと、ラフマニノフさえ与えておいてもらえばあらかた満足できるタイプの人間なのだが、やはりバッハとは「戻るべき場所」なのだろう。

そして漂う散財の予感

 いま私は毎朝5時に起きて勉強をする日々を送っている。やはり5時起きだと眠いので、コーヒーなど飲みつつ景気づけの音楽を聴くことが多い。ワーグナーやマーラーで目覚めたい気分の日もあるが、そんな中で最近よく聴くのがショスタコーヴィチの交響曲第10番だったり第11番だったりする(いずれも一部だが)。YouTubeなどで聴くことが多いが、間違いなく近々CDを買い求めたくなる予感がしており、そうなれば楽譜をセットにしたい衝動にかられるのは間違いない。
 ああ、いかんいかん、またJRAカードのポイントが溜まってしまう(笑)。

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