叱る以外の方法を知らなかったから

 6月28日の白饅頭日誌は、このようなものだった。

 やさしかろうが厳しかろうが「指導すること」それ自体が、相手にとっては「不快感を持たれるコミュニケーション」として解釈されかねないハイリスクな行為であるからこそ、だれも指導役をやりたがらなくなってしまった。表面的には快適で当たり障りのないコミュニケーションを心がけ、うわべだけを取り繕って「アイツは見込みがないから放っておこう」と切り捨てる。そんな時代がやってきてしまった。

白饅頭日誌:6月28日「叱り方がもうわからない」| https://note.com/terrakei07/n/n3fffdb1ff129

 確かにそれはそうかもしれない。現在の私の職場(部署)では、誰かが誰かに叱られているというシーンを見ることがほとんどない。もちろん全くないというわけではないけれども、数えるほどしかない。
 指導の現場は一見すると和気藹藹としていて、私らの世代の者からするとちょっと甘いように感じることもある。おそらく、ハラスメントに当たらないように、慎重に言葉や態度を選びながら、コミュニケーションを取っているのだろう。
 現に、ハラスメントの告発窓口が最近整備されたところだ。

 昔気質の荒々しい口調をどうして慎まなければならなくなったか――辞めてしまうからだ。現場系の業界の若者の離職率は深刻な問題になっている。学校を卒業するまで「快適なコミュニケーション環境」にあった人が、いきなり現場系のなかで「荒々しいコミュニケーション」に触れてしまったら、そのギャップに耐えられなくなるのは無理からぬことだ。

白饅頭日誌:6月28日「叱り方がもうわからない」| https://note.com/terrakei07/n/n3fffdb1ff129

 これも納得するところだが、一方で、「辞める余裕」のようなものを感じざるを得ない。何かしらの受け皿とか背景とかいうものがあるからこそ、辞めて別の仕事を探すこともできるのではないか。後先考えずに「荒々しいコミュニケーション」が嫌で辞めてにっちもさっちもいかなくなる若者もいるのだろうが、「快適なコミュニケーション環境」のほうを優先させられるだけの選択肢は用意されているということなのだろう(その選択肢がどれだけ有効か・いつまで有効か、というのはまた別の話にはなるが)。

 ところで、私の知人に理学療法士がいる。専門学校に在学中、何度か実習に出されるらしいのだが、それはもうひどいものだったらしい。実習中は寝る暇もないほどのレポートを課せられたうえに何度も書き直しを命ぜられ、実際寝る暇はなく、実習生は実習中に立って寝るというスキルを会得するのだという。
 知人の理学療法士はこうした体育会系的なしごきを肯定はしていなかったが、私もとりわけ医療の分野に属する、サイエンス系の資格において非科学的な育成法が行なわれているのが、不思議でならなかった。寝る暇を与えないことが、良い理学療法士を育てるのか? 自分がそうやって育てられてきたから(そうやって苦しんだから)、そのままのことを実習生に対して行っているだけではないのか? 苦痛に耐えかねて挫折したが、科学的なエビデンスに基づいて育成されれば優秀な療法士に育った人材がいたのではないか?

 いろいろな分野で、例えば「技は盗むもの」「見て覚えろ」式の育成が行なわれている(いた)ことをたくさんの人が知っていることだろう。ただ、それというのは教える側が教えなければならないことを体系化・言語化できないことの言い訳に過ぎなかったのではないか、という気もする。それでいて、やってはいけないこと、間違っていることはわかるので、それを叱ると叱られた側は「?」となる。昔はそれでよかったが、今日的な価値観では理不尽となり、ことによってはハラスメントになってしまう。


 さて、ここからは余談になる。さきに登場した知人の理学療法士Kとは、6年ほど介護関係の事業所で一緒に働いた。Kが事業所を設立し、私が創設時のメンバーだった。同じく創設時のメンバーとして、ケアマネのJ氏と介護職員のSさんがいた。
 Kもまた叱るタイプの上司ではなかった。一方、たまに人手が足りない時に手伝いに来ていたKの奥さんが、人前だろうがなんだろうが容赦なく叱りつけるタイプの人で、とりわけSさんに辛く当たった(今思えば、創設時のメンバーに妻である自分が選ばれなかったことへの不満をぶつけていたのだろう)。
 やがてSさんは精神的に変調をきたしはじめ、泣きながら「私は社長(=K)のためを思ってやっているし、社長からは何も言われないから正しいことをしていると思っている。それなのに奥さんは全然反対のことを言って責めてくる。もうどうしていいかわからない」と私に訴えた。ちなみにその奥さんという人は、さんざんSさんを叱りつけておきながら、肝心のことになると「私は部外者だから」と逃げる、控え目に言って最低の部類の人であった。
 その頃、KにはそれとなくSさんが参ってきているということを耳に入れていたのだが、そのとき返ってきたKの言葉は、「Sさんには期待をしている。だから、間違った介護をしても、自分で気付いてほしいから、何も言わないで気付くのを待っている」というものだった。おそらく誰かしらカリスマ的経営者の受け売りだったのであろう。それでいて手伝いに来させている自分の妻にはそのことを伝えていないという、軽い地獄のような様相を呈していて、さすがに私もKとSさんの間を取り持つことは断念した。私の手には負えないと判断したのだが、その判断は多分間違いであるという思いは、今でも持ち続けている。Kと刺し違えてでも、「君のやり方は間違っている」と主張すべきであった。
 間もなくSさんは退職した。もう少し何かできることはなかったか、後悔はおそらく一生つきまとうことになろうかと思う。

 ハラスメントと適切な指導との境界線は、明確かつ的確な言語化にあると思っている。


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