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いつまでも子供のままで
あの時の言葉を今日も噛み砕いて眠る (syrup16g / She was beautiful)

村岡さんは不思議な人だ。

普段から親しい交流があるわけでもなく、過去にDJイベントの「内装」デザインを頼まれた際の打ち合わせを除けばサシで何かを話したこともない。その打ち合わせも、予算額とギャランティを提示され、先方のやりたいことを一方的に聞き、こちらのやりたいことを一方的に話し、「まあ具体的なところは当日現地で」的に折衷しながら二人してサイゼリヤのフォカッチャを一切れずつつまみ、ノルマをこなすようにドリンクバーを一杯ずつ飲み、別れた。打ち合わせとしては実に過不足なく要件だけを淡々とかわし、雑談もほとんどしなかった。要するに僕と村岡さんは、そのくらいの間柄である。

初めて見たNot In Serviceの芝居は「3 Fires EP」(2011年)だったはず。8年も前の作品だから細部までは覚えていないが、開演するなりゲーム「女神転生」に関するモノローグ(というより講義のようなもの)が始まったことと、ラストで演技なのか正気なのか全然区別がつかない状態の村岡さんがtofubeatsの音楽に乗って泥酔しながら舞台上を暴れまわっていたこと、だけは覚えているが、そんなシーンはなかったと言われればそうかもしれないと素直に認める程度にうっすらとした記憶でしかない。あ、あと村岡さんがNot In Service名義で公演を打った劇場は閉鎖するというジンクス?がある。これも信じてなどいないが、まあそんなものかという気もする。

正直なことを言えば「3 Fires EP」は、最初から最後まで何が言いたいのかよくわからない作品だった。けれども「何か言おうとしている」作品だったことは確かで、僕はその吃音のような声に耳をすませ続けた。何か言おうとしている人が、しかし何を言っているのか理解されず、理解できないがゆえに存在ごと無視されようとしているみたいな、その幽霊じみた存在感を無視できなくて、それだけで最後まで見続けたような気がする(重ねていうが昔のことなので多少美化されている可能性はある)。

「幽霊」という単語が都合よく出てきたので、このまま本題に入る。Not In Serviceが2019年におこなった公演『3 dXXXX EP』の一篇「GST」には、Ghostlegというアーティストの音楽が、単なる劇伴や音効、バックグラウンド・ミュージックとしての枠を超え、作品そのもののコンセプトと並走するように使われている。

Ghostleg。中学英語レベルの直訳をすれば"幽霊の足"。蛇足、みたいな意味合いなのか、なにやら滑稽な響きもする。もう少し突っ込んだ裏読みをするならBootleg(海賊盤)のGhost、ストリーミング配信・サブスクリプション全盛の時代に居場所をなくした違法な円盤乗り達の幽霊のことか、はたまたGhostのBootleg、肉体的機能不全や脳の活動停止といった手続きを踏んでいないがゆえに正規の死者・幽霊として承認を受けていないが、社会的には存在の意味を剥奪されてしまった者たちを指すのだろうか。「公正に」ねじ曲げられた、国家が関知する統計表の上にはパーセンテージを占めない、健康的でも文化的でもなく最低限度の底を割っている社会的死者たち。

「GST」という短編(とはいえ独立した短編だとは到底呼べないくらい相互に強く結びついているが)に使われているGhostlegの楽曲はすべて、恐らく現時点で最新にして唯一のアルバム「₲#0$✞!f!© /!✞3r4©!3$」から引用されている。これはGhostific Literaciesと読む。何故かって? そんなことまで教える義務はない、少しは自分の頭で考えるといい。このタイトルを理解するためにこそ、Literacyは必要とされているのだから。

情報中毒になったら
言葉は流れるだけ
正義感とか怒りも
どーせインスタントじゃん
(Ghostleg / 身と蓋)

Literacy、読解力。語源を同じくする単語で表すなら、Literature(文学)をLiteral(逐語的)に追う能力と言い換えてもいい。村岡さんの脚本と演出は恐ろしく入り組んでいて、エンゲキを観るというよりはカフカやフォークナーの小説を読むのに近い集中力を必要とする(テーマ的なことではなく、単純に読みくだしづらさの点において)。小説ならば、わからない箇所を行きつ戻りつ読み返したり、文意を理解できるまで1ページに何分もかけてとどまることも可能だ。が、エンゲキはエンゲキの時間の都合でどんどん先へと進んでしまう。次はどこへ行けばいい、何を見て誰の話を聞けばいいといった情報が親切に提示される一本道RPGなどと違い、Not In Serviceの作品はその名の通り「サービスしない」ので、われわれは偶然発見した研究者の手記を解読するように闇の中を手探りでうろつき回るほかないし、その道中で拾ったものに意味や価値が本当にあるのか、それとも単なるがらくたなのか、自分の目と耳と心で逐一判断し取捨選択していかなければならない。

話の都合で「GST」のことから始めてしまったが、じつは「GST」の上演順は2番目だ。なので、少し時間を前後して、最初の短編「PTP.exe」の話をする。こちらの読解力が試されているという意味でなら、「PTP.exe」はその最たるものだろう。

開演を待つ舞台上には、「ピーターパン」のアニメ映像がエンドレスに垂れ流されている。それも要所要所をかいつまんだダイジェスト版のような映像。そして舞台上の別の場所には巨大なフリップが立ててあり、ピーターパンという作品のあらすじ…構成要素についての箇条書き、らしきものが書き連ねてある。劇場に早く到着していればいるほど、その映像とフリップを見ずにはいられない。見て、何か、考えずにはいられない。上演は始まっていないが、思考は勝手にエンゲキを始めてしまう。そういうカラクリになっているのだ。実際、僕はこの日、ほかの客よりも誰よりも早く劇場へ一番乗りで着いてしまい、枚数の少ない折込チラシに目を通し終えた後はずいぶん長いこと、その映像とフリップを交互に見ているしかできなかった。

開演前に充分なインプリンティング(刷り込み)を行われたまま始まる「PTP.exe」のストーリーは、現代劇としては不自然すぎる状況(わざわざ至近距離まで近づいていって攻撃する道具が弓矢、など)のオンパレードだが、さんざん見せられてきた「ピーターパン」の展開を基本的には踏襲しているため、物語自体を見失うことはない。ふりかければ空を飛べるというティンカーベルの「粉」が、そのまんま薬物的な意味のスラングだったりすることなどに「観客」として「感心」しながら、目の前で繰り広げられる惨劇の一部始終を「ピーターパンになぞらえたフィクション」として消費できる。誰もそれを本当だなんて思わない。「PTP.exe」のexeとは実行ファイルの意味だから、読み込まれて実行されたピーターパンの物語を、われわれは(Windows Updateが終わるのを待つように?)とりあえず黙って見守るしかない。

そういえば、executeには「処刑」という意味もなかったか?
そういえば、さっき映像字幕で「みなさん逃げてください、これはエンゲキなどではなく邪悪な計画だ」などと言っていなかったか?

その言葉を、ここにいる誰か一人でも信じたか?
耳を貸したか?

And you know what they say might hurt you
And you know that it means so much
And you don’t even feel a thing
〈傷つくことを言われても
それが、重要だとわかっていても
あなたは何ひとつ感じない〉
(bôa / duvet)

「PTP.exe」「GST」の順で上演されてきた連作は、最後の短編「HLL」で締めくくられる。

最初に「作者」を名乗る人物(しかし明らかに「作者」=村岡さんではない別の役者)が登場し、「HLL」が自分の見た夢を翻案した…というか、一応の筋道が通るように整えたものであると語る。そうやって始まるのは、地獄についての物語だという。

「PTP.exe」が現代劇にしては不自然なところが多かったのと同様に、「HLL」も地獄にしては不自然なところが多くある。もっと簡単に言えば、「ちっとも地獄っぽくない」。血の池も針の山もなく、有無を言わせぬクレーマーが壊れた標識を直せと理不尽に絡んできたり、賽の河原のかわりにシュレッダーくずのような細い紙切れをゴミ袋に回収する仕事が続く。苦痛といえば苦痛だが阿鼻叫喚と呼べるほどでもなく、音を上げたくはなるものの耐え切れないほどでもない、ちゃちな絶望とたっぷりの退屈。そこは一度も死んだことがないはずの我々にとって、ひどく既視感のある地獄だった。

その地獄で、主人公(と呼んで構わないはずだ、なぜなら僕はこいつに感情移入してしまっている)は幽霊と出会う。幽霊の姿は彼(と観客)にしか見えない。一緒に地獄へ落ちてきたヤクザ風の男は言う。

ここで幽霊を見るってことは、人恋しいから見てるんだ。つまりどういうことかわかるか? まだ他人を求めているんだよ。(中略)生きてる人間しか、他人を欲しがりはしないんだ。だからお前は、まだあそこに戻れるんだ。

「PTP.exe」で人間性から切り離された物語の幽霊を、「GST」では幽霊的にSNSやメディア上を浮遊する人間たちを扱いながら、最後の最後に「HLL」で(観念としての)死んでしまった男を救うものもまた、幽霊だったのだ。

透明になって 知られなくなって
語られなくなり 忘れ去られる
墓石はなく 名前も残らず
ただ透明になって 澄み切っていく
(Ghostleg / Ghosting)

この先いつか僕が「死んだも同然」になった時、見える幽霊はいるのだろうか?
(そこまで親しくないから、村岡さんの幽霊を見ることは多分ない気がする。嘘でも「見る」と言えれば綺麗なんだろうが、それは話が出来すぎというもので。)

とはいえ、たまたま死にそうになってるタイミングでNot In Serviceの芝居をやっていたら、僕はきっと見に行くと思う。行くんだろうなあ、健康で五体満足なときは簡単に見逃すくせに。

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