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いない人がいなくなった話

夢を見て、それが夢だったと識別できる方法は「実際には起こり得ないことが起きたかどうか」だけなのかもしれない、結局は。
そんな夢を見た。

現実との落差があるとすれば、強いて言うなら「在宅勤務をしていなかった」ことくらいだろうか。
昼休みの外食をどこか近場でとる必要があり、職場の周辺の、もう何十回何百回と通い慣れた往来を歩きながら、それでも一軒、これまでに入ったことのない店を見つけたので行ってみることにしたのだった。さほど珍しいことでもない。東京のオフィス街に隣接する飲食店は新陳代謝が速く、せいぜい3年も同じ町並みを見ていれば牛丼屋のテナントが居抜きで天丼屋になったあと突然オフィスチェアを取り扱うショールームに変わる様子だって観察することができる。

そこは中華料理店だった。いわゆる町中華。ラーメン屋でよく見るような細く引き伸ばされたコの字型のカウンターは全面が赤く塗られているが、原色とパステルのちょうど中間といった色合いで目にまぶしくはない。床や壁に油汚れはほとんどなく、ただそれは清潔感というより「面倒だからと描き込まれなかったディテール」といった印象を受けた。要するに現実味がない。ほかに客はおらず、カウンターの一番奥の席に腰を下ろすと、ショットグラスかと見紛う小さなガラスのコップに注がれた水が目の前に置かれた。
店員は同い年くらいの女性が一人だけで、厨房にも人の気配はなかった。まさか一人で全部切り盛りしているのか? 胸ポケットについたアクリルの名札には「からち」とあった。知らない名だ。漢字でどう書くのかさえ定かではない。北海道に空知そらちという地名があるが、なにか関係するのだろうか。そういえばこの店の名前はなんだったっけ。

「もう少し待てば、今日オクムラくんも来るって言ってたよ」

急に話しかけられた。初めて来た場所の店員と客にしては随分とぞんざいな、しかし不快感はあまり感じない口ぶりだった。

「ほら、そこに書いてある」

座っている席のすぐ横に壁掛けのカレンダーがあり、カラチがそれを指差す。なるほど今日の日付のところに太字のサインペンで、16時 北小 奥村 とメモ書きがされていた。

あれ、奥村ってもしかしてあの奥村?

思わず尋ねてしまっていた。奥村という苗字はそれほど珍しいものではない、たまたま同姓の人間など探せばいくらでも見つかるだろう。だがカレンダーには北小とも書かれている。それは自分が卒業した小学校の名だった。
これから来る客の名前をわざわざ出身校、それも小学校とセットで書き残す必然性を鑑みれば、答えはおのずと明らかになる。カラチという名にも聞き覚えはない。結婚や、そのほかの事情で苗字が変わったのかもしれない。が、自分が記憶していないだけで、彼女は確かに小学校時代の同窓生なのだ。

え、っていうかカラチもめちゃくちゃ久しぶりじゃない?

全く覚えていないことを悟られぬよう、不自然なほど大きいリアクションで再会を祝してみせた。大丈夫だろうか。そもそも自分は小学生のとき、こんなキャラクターではなかったはずだが大丈夫か。
カラチは喜ぶでも疑うでもなく淡々と、酢豚を作りに厨房へ引っ込んでいってしまった。

このあと奥村だけではなく下田も合流し、4人で終電間際まで飲んだ。4人とも小学生時代はそんなに仲が良かったわけではないので、かつての親友が集まって思い出に花が咲くというより、たまたまそこに居合わせた知り合い同士が「たまたまそこに居合わせた物珍しさ」を肴に懐かしさをブーストさせるだけの行為ではあった。それでも午過ぎから夜中まで途切れることなく話題が続いたのは事実で、すっかり気分がよくなった僕は大きな寝返りを打って

目覚めた。自分の部屋だった。ぼやける視界が最初に捉えたものは携帯の充電器だった。昨夜あのまま酔いつぶれて、どうやって帰宅したのかも覚えていない…というのは、記憶をなくすまで飲んだ経験が過去に一度もないので却下だろう(という主観的な認識は記憶と経験に基づくので、これは悪魔の証明でもあるが)。ってことは、そうか夢なんだ。おかしいと思ってたんだ。そりゃ大人になったら皆少しくらいは見た目も変わる。しばらくぶりに会ったら誰なのかわからなくなってる人だっている。だから…だから気づけなかったのか。夢だったことに、一度も。

これは自分にしかわからないことだし、それゆえ共感されにくいところなのだけど、奥村と下田はどちらも実在する同級生で、しかもきちんと本人を彷彿とさせる顔立ちで登場したものだから余計に騙されてしまったのかもしれない。あの夜(まあ昨夜なんだけど)、20年以上ぶりに同級生が顔を合わせたことは紛れもない事実で(まあ夢なんだけど)、その「まあまあ美しい思い出」の中に、純粋な夾雑物のようにカラチだけが存在していない。昼間カラチに注文した酢豚の味は、なぜかいまでも舌の上にかすかに残っているというのに。


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