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mentamaponkan

「目ん玉ポンカンのまんまやないかい!」

という台詞を発する機会が、果たしてあなたにはあったか。

私はあった。夢の中での話だけれど。しかも未遂に終わったけれど。

* *

東京へ来てからずっと、発音も語彙もほぼ標準語で通している。関西弁の、しかもこんなに強いニュアンスを伴った台詞は、よほど気を許した昔からの知人相手にしか使わない。

つまり、その相手はよほど気を許した昔からの知人ということになる。まったく誰なのか心当たりのない顔だったけど。

その相手はスーツを着ていた。青っぽいネクタイを締め、緊張していた。どうやら相方のようだ。これから二人で、人前で漫才を披露するようだ。

「ようだ」といった書き方しかできないのは、私自身そのことを何も知らされていないからである。

舞台関係者はだれしも一度くらい、台詞を全く覚えていない(または台本をもらっていない)のに今から舞台に立たなくてはならない悪夢を見るという。今回のケースはそれに似ていた。ただひとつ違うのは、私が台本をもらっていないわけではないことだろう。これからどんな催しの場で、何の漫才をするのかは知らない。しかし言うべき台詞が一つだけ、私には明確に存在した。それが冒頭のこれであった。

「目ん玉ポンカンのまんまやないかい!」

目ん玉、すなわち眼球がポンカンとはどういうことか。しかもポンカンの「まんま」とは。これから行うのが漫才であることを考えるに、おそらく、そういうボケがあるのだろう。それに対するツッコミなのだろう。そこまでは理解できたとして、その先が問題なのだ。

私は、「目ん玉ポンカンのまんまやないかい!」以外の台詞を何一つ持たされていない。

漫才とは二人の人間による会話から生まれる笑いの話芸だ。もちろんトリオやそれ以上の人数構成による変則的なパターンもあるが、少なくとも今の私にとっての相方は、この誰だか知らない男ただ一人だけのはず。なのに一種類のツッコミしか持たされていないのは、これはどういうわけだろう。

最初から最後まで一種類でいくつもりなのか。

全部のボケに対応できる万能な台詞じゃないのは火を見るより明らかだ。なにしろ「目ん玉ポンカンのまんまやないかい!」である。汎用性が低過ぎる。

それともボケが一つしかないのか。

これから始まる漫才の出番が何分あるのか私は知らない。もしかしたら1分程度のショートネタ的な需要かもしれない。だったら台詞が一つだけでもいけるか。いや、違う。この台詞には決定的に、それ単独で存在することのできない理由がある。

「目ん玉ポンカンのまんまやないかい!」が成立するシチュエーションとはどんなものか、考えればすぐにわかる(あまり考えたくはないが)。なぜならこれは、目ん玉がポンカンであるという異常状態を放置したまま他の行動に移ろうとすることへの注意・指摘の台詞にほかならないのだ。デフォルトの状態がポンカンである目ん玉など、この世に存在しない。そこが可笑しさであり、笑いどころであるからこそ、このツッコミはツッコミたり得るはずなのだから。

だとすれば漫才の途中で、目ん玉が(それが私の目ん玉か相方の目ん玉かはわからないが)ポンカンになる瞬間が必ずあるはずなのだ。少なくともこの段階で何らかのツッコミが行われなくては、どう考えてもおかしい。そこを素通りしていきなりの「目ん玉ポンカンのまんまやないかい!」はあり得ない。

相方に告げてネタを再度教えてもらえばいいだけのことではないか。夢から覚めて冷静な思考を取り戻した今ならそう思えるが、昼ひなかの常識が通用しないのもまた夢の道理。ネクタイを何度も締め直す相方の緊張感に煽られるまま、私は唯一持たされた武器である「目ん玉ポンカンのままやないかい!」だけを頼りに舞台袖で時を待った。

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