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任意の町k

いつか床子さん(以後、ユカコさん)とは結構古くからの知り合いなのだけど、年に一度くらい顔を合わせるか合わせないか程度の距離感を保ったまま10年近くが経過しようとしている。

初めて出会った頃、まだユカコさんはユカコさんじゃない別人だった。僕を含め、共通の知人たちはみんな「いつか床子」をペンネームだと思っているけれど、正確にいうとユカコさんは別人になったのだ。いや、別人からユカコさんになったのだ。

こんな風に書くと、まるで「あいつ変わっちまったな…」と言っているみたいだが、当然そこに優劣はなく、どちらがビフォーでもアフターでもない。しいて言うならフェードインだろうか、関係性のパーティーにちょっとだけ遅刻してきた人のような当り前の顔で、気が付けばユカコさんはそこにいた。

そして今、ユカコさんは別人にインタビューをする「別人屋」を生業としている。インタビューとは別人(自分ではないという意味の)について知る手段なのに、ユカコさんはそれをさらに偽らせた上ですべてを真に受けて真面目に話を聞く。「別人になりすました他人の話」にユカコさんが耳を傾けるとき、この場所にいる人間は誰もいなくなる。僕みたいにユカコさんと旧知の仲である人間にとっては、もう一度はじめましてができる貴重な機会なのだ。

きょう7月7日、ユカコさんは北千住のBUoYという場所で別人屋をやっている。行かない手はないだろう、僕は意気揚々と出かけることにしたのだった。

地下を走る緑色の電車に乗って、目的の駅で降りる。地上へ出たら、マクドナルドとてんやの間の細い路地を真っすぐ。まだ昼間なので本性を隠したままの、いかにも古き良きって感じの居酒屋が立ち並ぶ道を抜けたら急に視界が開けてくる。車の多い大通りを、気を付けながら横断して歩道橋の先、再び細くなる道を無心に進むと、やがて、全体がなだらかな斜面になっていたことを周囲の地形のおかげで知ることができる。

斜面の終わりにBUoYは存在する。過去2度ほど、地下1階の劇場へ芝居を見に訪れたことはあったが、今日の目当ては2階のカフェスペースだ。

ところで、これは本人に言っても頑なに認めてくれないのだけど、ユカコさんは話を聞くのがうまい。ここぞとばかりに打ってほしい相槌をくれる。話し相手として非常に「気安い」ぶん、油断するとすぐに自分が出てしまうだろう。こちらとしても、別人になるための気持ちの準備が必要だ。

さて何者を名乗ろうか…と考えあぐねつつ、結局決められないまま階段をのぼると、そこにユカコさんの姿はなかった。出迎えてくれたのは見知らぬ女性だった。初めて見る顔だ。

「いらっしゃいませ」
「あの、こちらは別人屋さん…ですよね」
「はい」
「話を聞いてもらいに来たのですが」
「ありがとうございます、ではお話しいただけますか」
「あ、でもその前に…」
「はい?」
「ユカコさんは、今いらっしゃらないんですか?」
「私がユカコですが」
「いつか床子さん?」
「そうです」
「いや、違いますよね」
「どうされたんですか? 始めても大丈夫ですか?」

目の前の女性はきょとんとしている。嘘をついたり、騙そうとしている様子は全く見えない。何かが変だ、そういえばBUoYにこんなアルミ製の机はあっただろうか、わからない、前に訪れたときにもっとよく見ておけばよかった…

たまらず僕はユカコさんを名乗る女性に尋ねた。

「ここはBUoYですよね?」
「ぶい?」
「北千住の…」
「ああ、キタセンジュ。キタセンジュからブイを探しにいらっしゃったんですね!」

ユカコさんのリアクションは、僕の身に起きた出来事のすべてを物語っていた。彼女はBUoYという単語も、北千住という地名も、おそらくたった今はじめて耳にしたのに違いない。知らない言葉を前にして、ユカコさんは「設定」のスイッチを入れたのだ。

僕は、家を出てからここにたどり着くまでの一部始終を必死で説明した。メイジジングーからチヨダセンに乗ったこと、キタセンジュからの10分弱の道のりのこと、なぜかブイとは違う別の場所に来てしまったらしいこと、でも別の場所にも別の別人屋が存在していたこと。別人屋のユカコさんはその話を疑うでもなく笑うでもなく、まるで異国の冒険譚を聞くように頷きながらメモを取っていた。それは本当なのに絵空事のようで、嘘なのに事実のようで、奇妙な浮遊感をともなって口から勝手にこぼれ落ちていった。

ユカコさんは最後に、これ以上ないだろうというくらい真面目な声で言うのだった。

「また迷ってしまわないよう、気をつけてお帰りください」



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