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おまえにはいつまでもわからないまま

こどもの頃、とくに反抗期、「おまえにもいつかわかる時が来るよ」という言葉が大嫌いだった。

主に、どうしようもなく存在する現実の理不尽さや、どうしようもなく妥協せざるを得ない社会の仕組みなどについて、若さによる知識と体験の欠如を主な理由として常套句のように用いられてきた言葉だった。世の中そんなに甘くないんだ、今お前は学生だから許されているだけだ、社会に出れば嫌でもわかる時が来る。

その予言めいた言い回しも気に食わなかったのだろう。占い師でもないくせに、何を偉そうに他人の未来に、しかも心の内側に干渉してくれているのか、と。わかる時なんか来てたまるか、そんな日が来るというならその前夜に舌噛み千切って先手必勝で死んでやる、そもそもお前に「いつかわかる」とか言われんの自体腹が立つから仮にわかりそうでも絶対わかってやらない、大人はわかって紅、DAHLIA、Rusty Nail。などと。思っていた。

わかりやすく一例を挙げるなら、毎晩酔って帰ってくる父親に「大人には断れない付き合いの酒があるんだ」なんて言い訳がましく諭されては「俺だったら上司の頭をビール瓶でブン殴って帰ってくるけどな」なんて口答えして、「おまえもいつかわかる時が来る」「いいやそんな日は永劫に来ないね(習ったばかりの永劫という表現を使いたくて仕方ない目をしながら)」なんてやり合ったりしていたのが16の夜だ。片方は酒への、もう一方は反骨する己への酔いが覚めないいざこざの宵だ。略してイザヨイだ。

あれから25年以上が経ち、子供は大人になった。成人して「断れない付き合いの酒」との邂逅も果たし、気分が悪くてトイレから出てこられない振りをしたり、実際よりも三本早い架空の終電を創出したり、嵐が通り過ぎるのを押し黙って待ったり、あらゆる工夫と趣向を凝らすことは試みてきたが、いまだに上司を景気よくビール瓶で殴って帰る夢は叶わない。

自分でもそれと知覚できぬうちに、「わかる時」は訪れていた。少年の日の強い(と思っていた)決意はジョイを浴びた油汚れのごとく易々と押し流され、姿見の中にはまるで最初から従順だったみたいに弛緩した顔がある。その背後からもう一人の自分が、16の記憶を保ったままの自分が睨みつけている。そして彼は言うだろう。裏切ったな。約束を破ったな。すっかり厭な大人の仲間入りか、と。疲弊と諦念が臭う溜め息をつきながら、43の自分は16の自分に向かって言い返そうとする。自信がないのか声はひどく小さいが、口の動きで読み取れなくもない。「おまえにもいつかわかる時が……

ぎりぎりのところで踏みとどまっている。
言えば容易にすべての構図が反転してしまうだろうし、反転した構図の向こうにいる16は絶対こちらの説得に応じないことは火を見るより明らかだ。あと、これもこの歳になってわかってしまった事だけど、16は16で大人に反抗しながら「おまえにもいつか(俺の言ってることが正しいと)わかる時が来る」と思っている、思っていた。過去の自分と現在の自分が、つまり、かつては現在の自分と未来の自分が、時を超えて相互監視しあっている。そしてどっちも意地っ張りだけが取り柄なもんで微塵も折れる気がない。めんどくせえな、同一人物のくせに。そのくせ未来にいるほうが一方的に結果を知ってんの不公平じゃない? あの日のあいつ報われなさすぎない?

いまでも僕はこれを「わかる時が来た」のではなく「屈服する時が来た」のだと定義している。どちらかといえば若干16のほうの肩を持ちつづけている。そのせいだろうか、僕はたぶん歳下の世代から「失礼をはたらいても怒らない人」みたいに思われている傾向があるんだけど(違ったらごめん、思い上がりだわ)それはやはり、彼らの後方にあの日あの時の「わかるまいと努力した自分」の姿を見ているからなのかもしれない。

「お前、変わっちまったよな」って一番言われたくない相手は昔の自分自身だ。

こんな話、お前にはわかんないだろうけど。
そもそも過去の自分がどうやってこれ読むんだよって話だけど。

まあ、お前にはいつまでもわからなくていいよ。わかる時なんか来なくていい、わからないまま成功してくれ、そしたらそれが俺の叶えられなかった夢になるんだから。


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