『作家の家』に寄せて

 『作家の家』と題する写真集で、そこに集められた、デュラスからユルスナールまで、二十一人の国際的に知られた作家たちの家の写真を眺めていると、わたしは時間を忘れてしまう。ヘミングウェイの死後に遺稿を整理するため未亡人に呼ばれて、キー・ウェストにある彼の家に長いあいだ滞在したことがあるという、知り合いの編集者から聞いた話を思い出しながら、ヘミングウェイの家のページを繰るのも楽しい。しかし、わたしの関心を最も惹くのは、ヴァージニア・ウルフが住んだモンクス・ハウス(「僧侶の館」)と呼ばれる屋敷の写真である。サセックス州の片田舎にある、この緑に囲まれてひっそりとした屋敷を、ウルフは夫のレナードと一緒に一九一九年に購入し、都会の喧噪を避けながら、一九四一年に自殺を遂げるまでそこに住みつづけていた。ウルフの代表的な作品はほとんどすべてそこで書かれたものである。
 ウルフの家がなぜわたしの特別な関心を惹くのか。それは、ウルフの小説あるいはエッセイに、たえず「部屋」と「読書」が遍在しているからだ。
 たとえば、フェミニズム批評の聖典としばしば見なされるエッセイ『自分だけの部屋』をとってみてもいい。あるいは、比較的初期の長篇小説『ジェイコブの部屋』をとってみてもいい。そこにはつねに部屋があり、部屋の中で本を読む人間がいる。ウルフがどれほど読書愛に満ちた女性であったかは、彼女が数多く書いた書評などの書物エッセイを読めば一目瞭然だ。書物エッセイでのウルフは明晰そのもので、そこには澄んだ太陽の光がみなぎっている。
『作家の家』に収録されている、モンクス・ハウスを撮った写真の中で、わたしのお気に入りの一枚は、書き物机が置かれたウルフの質素な仕事部屋が、大きく開け放たれた扉を通して、陽光と緑にあふれる庭へと続いている光景である。その写真をじっと見つめていると、ウルフがそこに置かれた籐の椅子に座っているような錯覚に陥る。そこでウルフは庭を眺めながら執筆をしたのだろうか。あるいは、その片隅に置かれた小さな肘掛け椅子を出して、読書をしたのだろうか。
 ウルフにとって、窓から見える庭の景色と同様に、書物から立ち上がる遠い過去の作家たちは、けっして遠い存在ではなく、手を伸ばせば触れられそうな、肉感的な存在だった。ウルフが読書をするとき、家じゅうの窓が開け放たれている。心の窓がすべて開け放たれ、その瞬間に、書物は書物ではなくなり、それを透明な媒介として、ウルフの自我は風景と、そして過去の作家たちと交感を行なう。
 そう思いながらこの『作家の家』を手に取れば、この写真集そのものが、コクトーやフォークナーやヘッセといった作家たちが集う「家」に見えてくる。一枚一枚の写真が、それぞれの作家たちの内奥の部屋へと通じる「窓」に見えてくる。わたしたち読者は、こうした作家たちとの交感に誘われる。
 ためらうことはない。わたしたちは一冊の書物、たとえばウルフの『ダロウェイ夫人』を手に取って、そこにあふれる陽の光に導かれるままに、ウルフの家へと続く道をたどればいいのである。

(初出:2012.5 週刊読書人)

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