連載「記憶の本棚」 第9回

 前回に香港のご当地本の話を書いたこともあって、少し寄り道してみたくなった。海外に出かけるときにいつも悩むのは、空港での待ち時間をいかに過ごすかという問題である。そうは言っても、本を読むくらいしかすることはないので、空港内のキオスクか本屋で買った本をパラパラやることになる。そういう本の中で、いちばんおもしろかったのは、十五年ほど前にアテネの空港内で買った、John F. L. Rossという、まったく聞いたことのない人が書いた、It's all Greece to me: Impressions of Contemporary Greek Life (一九九九年)である。
 この本は、副題が示すとおり、現代ギリシャ社会の生の姿を描いたものである。しかし、著者はギリシャ人ではない。英国人で、何度かギリシャ旅行をしたことがあり、しだいにギリシャの魅力に取り憑かれ、アテネ出身の女性と結婚してアテネに住むようになり、現在では大学で教えるかたわらでアテネの新聞に寄稿しているという人物だ。つまり、インサイダーでもありアウトサイダーでもあるという、二重の視点を持っているわけで、そこがおもしろい。どこの国に行っても、たとえ日本にいても、異邦人のような気分がついてまわるわたしにとっては、もっとも共感できるタイプの本なのだ。
 著者のように、ギリシャをこよなく愛した作家としては、ロレンス・ダレルとヘンリー・ミラーの名前がすぐに浮かんでくる。実際に、ダレルは本書でも取り上げられていて、夏に海辺で泳いだ後に読む本として最適なのはダレルの旅行記だと言われると、またギリシャに行って、そこでロードス島を描いたダレルのReflections on a Marine Venusを読んでみたくなる(わたしはダレルの小説が大の苦手なのです)。
 もう一人、ギリシャ愛の作家として、パトリック・リー・ファーマーという名前を本書で初めて知った。ファーマーもダレルと同様に英国人で、一九三〇年代にギリシャに渡り、そこで書きはじめたという。代表作は、十八歳のときにロッテルダムからコンスタンチノープルまで徒歩旅行をした、その記録であるA Time of Giftsで、これは三部作の一つ。読んでみたくなると思いませんか?
 しかしそれにしても、空港内でギリシャ案内本を読んだことが、ギリシャ旅行の中でいちばん印象的な体験だったとは、我ながら書痴なしである。

(初出:2015.9 本の雑誌)

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