連載「記憶の本棚」 第6回

画像1

画像2

 一九七〇年代、幻想文学に取り憑かれた人間にとって、まず参照すべきは紀田順一郎と荒俣宏、そして種村季弘と澁澤龍彦の著作だった。わたしもその既定のコースに従って読み進んでいたわけだが、そのうちに寺山修司のエッセイ群に出会った。
 寺山エッセイと言えば、すぐに思い出されるのは『競馬場で逢おう』『馬敗れて草原あり』といった競馬物だろう。しかし、当時のわたしはとりたてて競馬には関心がなかったので、競馬ファンにはすでに古典となっているそうした本はもうひとつピンとこなかった。わたしにとって寺山エッセイとは、八〇年代の初頭にPHP研究所から出た二冊『不思議図書館』(一九八一)と『幻想図書館』(一九八二)、そしてもう一冊、冬樹社の『月蝕機関説』(一九八二)である。この三冊はどれも〈寺山修司コレクション〉として九〇年代に河出文庫で復刊されたが、A5版で堅牢な造りの初版本が書物として美しい。
 図書館シリーズは、「古本屋の片隅で見つけた、不思議な本の数々」を紹介するものである。『不思議図書館』の目次から少し拾ってみれば、「ロボットと友だちになる本」「犬の読ませる本」「髭のある女の実話画報」「大男を愛するための図鑑」「歌うゴリラのシャンソン読本」「切り裂きジャックのナイフ入門」と、こうしてタイトルを見ただけで、そんな書物が世の中にあるのかと驚かされる。
「書を捨てよ、町へ出よう」という名文句が私たちの頭の中にこびりついているだけに、こうしたエッセイに見られる寺山修司の「本狂い」ぶりは意外に映るかもしれない。『幻想図書館』に収められた「書物に関する本の百科」という項目寺山修司は「いささかの自戒をふくめて」本狂いの一人であることを認めている。しかし彼は本を「物として愛蔵する」ような意味での本狂いではない。
「世界はすべて、ひらかれた本である。問題はどのように『読みとる』べきか、だ。すなわち、本はあらかじめ在るのではなく、読者の読む行為によって、〈成らしめられる〉無名の形態に他ならない」と書く寺山修司を、わたしはすばらしいと思う。寺山修司は、そのあくなき好奇心で、世界のあらゆる事物、森羅万象を蒐集しようとした。書物もそのうちのひとつであり、それは「死せる過去から、生きた現在を見出す」ため、言い換えれば町へ出るためなのだ。

(初出:2015.6 本の雑誌)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?