"tsundoku"のやわらかさ

 今、「積ん読」が世界中で静かに広がりつつある。
 といっても、世界中の人間が本を買うだけで読まなくなった、という現象が起こっているわけではない。持ってはいても読んでいない本、というのは、それこそ書物というものが世の中に存在しはじめた頃からあったはずだ。わたしが言っているのはそういう意味ではなく、「積ん読」という言葉が、"tsundoku"として、英語圏で次第に認知されるようになってきた、ということなのである。
 今年の一月三十一日、英国の『ガーディアン』紙の文化欄に掲載された記事には、tsundokuが「翻訳不可能な言葉」として紹介されていた。この記事のソースになったのは、ネット上のFree Word Centreという言葉をめぐるサイトで、世界中の「翻訳不可能な言葉」の中から厳選した言葉のリストの中に、めでたくtsundokuが入ったのである。ちなみに、そのリストに選ばれた日本語はもう一つあって、それはkyoikumama(教育ママ)だった。われわれからしてみれば、「教育ママ」(この言葉じたいが、すでに古めかしく見えるのはどうしてだろうか)よりもはるかに「積ん読」のほうが、世界に輸出しても恥ずかしくないように思える。
 この記事がきっかけになったのかどうかは知らないが、現在インターネットで検索してみると、tsundokuはポピュラーな言葉になりつつあることがわかる。その理由の一つは、すでにsudoku(数独)が国際語として定着したからだろう。わたしがsudokuの世界的な人気に驚いたのは、二〇〇六年のことだった。オランダに旅行したとき、キオスクではsudokuの小冊子が並んでいた。空港の待ち合いでは人々がボールペンを手にしてsudokuに取り組んでいた。こういう先発隊がいたからこそ、tsundokuもエキゾティックな言葉ではあっても、まったく耳慣れないわけではない言葉として、受け容れられる下地があったのではないかと想像できる(同じ-dokuでも意味が違うというのは、英語圏の話者にはわかるはずがないが、もしその事実を知ったら、日本の文字文化に興味を持つ人間が出てくるかもしれない)。
 そしてtsundokuが国際語になるかもしれないもう一つの理由は、この言葉が醸し出すやわらかな安堵感である。わたしたちは、読まないままで机の上に積んである本に対して、言葉にならない奇妙なうしろめたさを覚えるものである。その感情が、すでにtsundokuとして言葉を与えられているほど、万人共通のものであるということを知れば、そのうしろめたさが多少はやわらぐはずだ。日本が世界に輸出するのは、こうしたやわらかな文化であってほしい。

(初出:2014.3 ミネルヴァ通信『究』)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?