登り棒の話

 敬愛する池内紀さんの『すごいトシヨリBOOK』を読んでみたら、「ぼくは、すごいトシヨリなので昔のことをよく覚えている」という文章に出会った。これは真実である。なにしろ、わたしも「すごいトシヨリ」の仲間入りをしているので間違いない。そういうわけで、わたしは最近のことをすぐに忘れてしまっても、昔のことならよく記憶している。
 記憶の中の景色としてしばしば現れるのは、小学一年生だったときの、夏休みの校庭である。今でもそうだが、その頃のわたしはまったく運動神経の鈍い子供だった。泳げない、自転車に乗れない、とにかく何もできなかった。幼稚園のとき、母の話によれば、プールに入っても、その縁に「まるでヤモリのように」しがみついていたらしい。その情けない姿を見るに見かねて、母はわたしを川端丸太町にある踏水会という水泳学園に連れていった。そのおかげで、なんとか泳ぐことだけは身についたが、困ったのは鉄棒と棒登りだった。鉄棒では逆上がりができず、ナマケモノのようにぶら下がるだけ。棒登りもコツがわからずに、棒につかまったまま夏のセミのようにじっとしているだけ。それで、夏休みになって、毎日校庭に行き、練習をした。わたしが通っていた、中京区のどまんなかにある正祥小学校は、わたしが卒業した後児童数の減少が続き、平成五年に統廃合になった。現在、小学校の跡地には赤土の運動場が昔のまま残っていて、もちろん子供たちの姿はない。その景色は、わたしが夏休みに通ったときの、誰もいない校庭そのままである。何事でもそういうものだが、普通の人なら簡単にできることが、ある人にとってはどうしてそんなことができるのか、不思議でしょうがないという場合がよくある。棒登りもそうで、真下から見上げた棒のてっぺんは、信じられないくらい高いところにあるように見えて、とても登れそうになかった。
 わたしは子供の頃、猫と一緒に暮らしていたようなものだった。昔の京都にはよくあった、いわゆる鰻の寝床式になっているわたしの家には、小さな庭に大きなイチョウの木が一本立っていた。我が家の猫は、どういう気まぐれか猛ダッシュでその木を登っていき、上まで登ってしまうと、下りられずにニャーニャーないていることがよくあった。そういうときには、屋根伝いに猫に近づいていって、救出してやるのがわたしの役目だった。猫という生き物は、木を登ってみたくなるのが本能なのか。今にして思えば、スタンダード・ナンバーの名曲”Misty”の歌い出しは”Look at me, I'm as helpless as a kitten up a tree”である。どうやら木に登るのはうちの猫だけの習性ではなく、あちらの猫もやはり木に登って下りられずにニャーニャーないているものらしいが、それはともかく、猫は誰から教わったわけでもないのに自然に木に登る。それに比べて、人間様であるわたしの情けなさはどうだ。わたしの息子と娘は、小さい頃、近所にあった校庭の登り棒に嬉々として登っていって、てっぺんまで来ると、いかにも嬉しそうな顔をしていたことを思い出す。幸いなことに、わたしの運動神経の鈍さは遺伝しなかったようで、それだけは神様に感謝しなくてはならない。今では成人して一人暮らしをしている子供たちは、棒登りをしたときの記憶をまだ持っているのだろうか。
 夏休みの特訓の成果で、逆上がりができるようになったという記憶はないが、棒登りのほうはなんとかできるようになったはずだ。しかし、わたしの記憶には、どういうわけか、棒のてっぺんまで登れたときの嬉しさが欠落している。記憶の中に浮かび上がってくる景色では、わたしはいつも登り棒の下にいて、とんでもなく高いところにあるてっぺんを見上げながら、ためいきをついている。
 そういう景色が、いつしかわたしの原風景になってしまった。わたしにとって、人生とは登り棒の連続のようなものだ。一本の棒を苦労して上まで登っても、一息つく暇もなく、また次の登るべき棒が現れる。一本の棒を登りきったという喜びはすぐ忘れてしまい、また別の棒の下で茫然と佇んでいるわたしを発見する。
 京都大学の文学部で教えた二十数年間は、やはりわたしにとって、下から見ればとても登れそうにない一本の棒だったような気がする。定年退職して、ようやくその登り棒から解放された今、何かをやり遂げたという余韻にしばらく浸ってもおかしくはないはずだが、あいにくそういう気分はない。やがてはその登り棒の記憶も、目の前に現れる別の登り棒にかき消されてしまって、遠いものになるのに違いない。

(初出:2018.11 京大以文会発行『以文』61号)

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