連載「記憶の本棚」 第11回

 今回は、持ってもいないし、ましてや読んでもいない本の話である。
 昭和三〇年代の高度経済成長期に少年時代を過ごした人間にとっては、デパートは店舗の花形だった。子供にとって、それはほとんど、デパートの屋上にある遊園地を意味していた。そこでひとしきり遊んだ後は、その一つ下の階にあるレストランでお子様ランチを食べる、というのが当時の定番コース。考えてみれば、デパートにまつわるわたしの記憶は、屋上とその一つ下の階という二つの場所しかない。
 屋上の一つ下の階は、今でもそうだが、催し物の会場に当てられていた。わたしが記憶している催しは、本の特売市と、レコードの特売市である。どうしてそんな特売市がデパートの催しとしてあったのか、いまだに謎だが、とにかく小学六年生のときにそこで母に買ってもらった本やレコードが、すべての始まりではなかったかと思う。母は、安売りだからというので、「好きなだけ買うたげる」と言い、その言葉をいいことにして、わたしは(子供にとっては)山のような本やレコードを買ってもらった。十二歳のわたしにはわからなかったことだが、そこで売られていた本には新刊も相当数あった。それが安売りされていたとは、当時はいったいどういう流通の仕方をしていたのか不思議に思う。
 ごっそり買ってもらった戦利品は、その頃出たばかりの、河出書房新社のグリーン版世界文学全集だ。『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』といったトルストイと一緒に、『居酒屋』『南回帰線』『デカメロン』を混ぜたのは、性に眼覚める頃だったから。どうせ母にはバレないと思っていたが、そのわたしでも手を出す勇気がなかったのは、エルサ・モランテの『禁じられた恋の島』である。『禁じられた恋の島』! その題名が、わたしの空想に火をつけた。その禁じられた島でどんな痴態が繰り広げられるのか……。そのときから、『禁じられた恋の島』はわたしにとって永遠の禁書になってしまったのだ。
 ご存知のとおり、この小説は池澤夏樹=個人編集の世界文学全集に新訳が収録され、『アルトゥーロの島』と改題された。映画『禁じられた恋の島』を誰も記憶していない今となっては、原題に忠実な邦題を付けるのは当然のことなのだが、それでもわたし個人の記憶の中では、いまだに『禁じられた恋の島』として封印されたままなのである。

(初出:2015.11 本の雑誌)

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