連載「記憶の本棚」 第13回

 大学時代の四年間は、将棋部に属していたため、昼間はほとんど部室で将棋を指して過ごしていた。それが終わると、部員たちは晩飯を食ってから雀荘に行くのが決まりのコースだが、わたしは家に帰って小説を読んだりテレビで映画を観たりしていた。そのせいで、雀荘には行ったことがなかった。その代わり、麻雀の本はいくつも読んだ。技術本以外にも、ピカレスク小説の名作である阿佐田哲也の『麻雀放浪記』をこの頃全作読破し、実戦体験がまったくないのに興奮した。麻雀が打てるようになったら、これはもっとおもしろく読めるんだろうな、と思ったことを憶えている。
 『麻雀放浪記』を別にして、麻雀本でこの一冊を挙げるとすれば、なんといっても草森紳一の『九蓮宝燈は、極楽往生の切符』(一九八九年)である。といっても、これは麻雀本を探しているうちに出会ったわけではない。『見立て狂い』(一九八二年)を読んでから急性の草森熱に取り憑かれ、草森本を漁っているうちに、三一書房から出たこの新刊に飛びついたのだ。思えば、俗界に舞い降りた仙人でありながら、かすかに俗臭もただよわせた草森紳一が、最も愛した遊びは麻雀だったというのは、実に納得させられる。
 『近代麻雀』連載のエッセイを主に集めた本書の中で、。わたしがいちばん好きなのはこんなエピソードだ。トリオロス・パンチョスの名曲「キサス・キサス・キサス」が日本でも流行っていた頃、その歌が流れてくるたびに、歌詞に出てくる「ペンサンド」(pensando)を草森紳一は「ペンサンソ」と空耳してしまい、「この曲がきこえてくると、実際に『辺三策』待ちをつくりたくなるし、逆に『辺三策』待ちのリーチをかけている時は、待ちをみんなにばらされてしまったような不快な気持ちになったりしたものだ」。麻雀に我を忘れると、世界がすべて麻雀と化す、ということなのだろう。わたしはそういう体験をしたことはないが、なんとなくわかるような気がする。
 本書には、いかにも草森紳一らしく、中国故事に関する蘊蓄が盛り込まれているが、それによれば「九蓮宝燈」は極楽浄土の意味だという。仕事部屋の、宝燈ならぬ本の塔に囲まれて亡くなった草森紳一は、本書の題名どおり、きっと極楽往生したに違いない。それは決して、麻雀用語で受けるなら、西単騎の地獄待ちではなかったはずだ。

(初出:2016.1 本の雑誌)

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