連載「記憶の本棚」 第8回

 今回は、読んでもいなければ持ってもいない本の話である。そういう意味では、遠い記憶の中にしか存在していない本で、この連載で取り上げるのにふさわしいかもしれない。
 わたしが初めて海外旅行をしたのは、大学一年のときだった。べつに観光をするつもりもなく、香港に出かけて、あちらの空港でたまたま知り合った、京都の醍醐寺から来たという修行僧と一緒に安ホテルに泊まり、一週間ほどぶらぶらして過ごした。どういう経緯でそうなったのかは忘れてしまったが、そこに入ると二度と出られないという噂のあった、迷宮のような巨大スラム街の九龍城砦(九〇年代に取り壊されて今はない)にもぐり込み、偽ダイヤモンド造りの現場を見学させてもらったこともある。
 九龍サイドをうろついていたら、「スケベ本アリマス」という貼り紙を見かけたので、そういう目的でやってきた日本人もいたのだろう。しかしわたしは、その方面には目もくれず、大型書店に入った。ずらりと並んでいる洋書に圧倒されながら、そこで買った一冊の本が、初めて海外で買った記念すべき洋書ということになる。それは、香港のいわばご当地本とでも呼ぶべき、Han Suyin(ハン・スーインあるいは韓素音)の代表作A Many-Splendoured Thing(一九五二年)である。この題名を見て、ああ、あれね、とすぐに思い出せる人はわたしと同世代のはず。ジェニファー・ジョーンズとウィリアム・ホールデンが出た、ご存知『慕情』の原作だ。あの主題歌は、もちろんカラオケで歌えます。日本では、深町真理子訳で角川文庫から出ていたらしいが、わたしは知らなかった。
 それはともかく、香港で買ったそのペーパーバックは、結局読むこともなく、そのうちに古本屋に売ってしまったらしく、本棚を探してみても見つからない。今では海外に行けば必ずその土地にゆかりの小説を買うのが習慣になっていて、そのきっかけを四十年以上前に与えてくれた本を、もう一度手にしてみたいと思う。ただ、香港を舞台にした小説といえば、ジョン・ル・カレの『スクールボーイ閣下』やドン・ウィンズロウの『仏陀の鏡への道』(東江一紀訳!)、さらにはポール・セローの未訳長篇Kowloon Tong(一九九七年) と手を出したくなるものはたくさんあって、はたしてハン・スーインにたどりつけるかどうか怪しいのだが。

(初出:2015.8 本の雑誌)

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