百団大戦は日中戦争の仕掛人が中共であるもうひとつの動かぬ証拠である

何度も和平交渉を持ちかけた日本。その度に邪魔をした中共。百団大戦は中共こそが日中戦争の仕掛け人だったことを示すもうひとつの動かぬ証拠である。


百団大戦跡
山西省陽泉市の百団大戦記念館

1940年8月、国民党内に対日妥協機運が生まれたのにあせった中国共産党は、そうした機運に水をさすべく計115師団、40万の兵力を投入して華北の主要な鉄道にいっせい攻撃を加えた。これが中国共産党が自画自賛する百団大戦なる戦闘である。
これはたしかに支那事変中もっぱら山岳地帯に隠れ潜んでいた中国共産党がその重い腰をあげて立ち上がった数少ない抗日戦闘のひとつである。しかしその実態はといえば、一般人を装ったゲリラや民兵を動員して引き起こした同時多発的なテロ活動にすぎなかった。
とはいうもののその結果、正太線がズタズタに寸断され、また満州鞍山製鉄所の燃料供給源であった井(脛) 炭坑もしばらく採炭不能に陥るなど日本側にもそれなりの被害をもたらしたこと、またそれにより両軍の間にきざしていた停戦機運が雲散霧消し、和平に向けたそれまでの日本側の長年にわたる努力も水の泡となってしまったことは事実である。

(解説)
国民党内に生まれた対日妥協機運というのは、もうこれ以上日本軍と戦うのはやめようということです。要するに停戦です。しかし当初から山岳地帯に隠れ潜み、日本軍との戦闘には消極的だった中国共産党がここへ来てなぜ突然そこまでして停戦に反対したのでしょうか?

その理由は両軍が交戦していた方が中共にとって都合がよかったからです。そのことは戦中、みずからはほとんど日本軍と戦うことのなかった中国共産党が日本軍撤退後、国民党を追い落として政権を奪取した事実からも見て取れるでしょう。実際、中国共産党はその間、日本軍との戦いは国民党軍に任せたまま、自らはその背後で支配地域を着実に拡大していたのです。

そもそも日中戦争自体、中国共産党がしかけたものでした。盧溝橋事件で最初に発砲したのは中国共産党北方局の劉少奇麾下の部隊でしたし、船津和平協定の当日に大山大尉殺害事件を引き起こし、停戦協議を邪魔したのも中共でした。つまり日中戦争そのものが日本軍と国民党軍の共倒れをねらう中共がしかけた一大謀略だったのです。要するに中国共産党は最初から漁父の利を狙っていたのです。

口を開けば平和と戦争反対を訴えていた中国共産党の真の狙いがどこにあったのか、この百団大戦はその本音がポロリと漏れでた事件だといえるでしょう。

(参考)支那事変の前後に日本が試みた和平交渉

1、現地停戦協定(松井-秦徳純協定)1937年7月11日
2、宮崎竜介和平工作 1937年7月19日
3、船津和平工作 1937年8月9日←同日午前、大山大尉殺害事件が発生し中断
4、トラウトマン和平工作 1937年11月5日
5、汪兆銘和平工作 1939年〜1940年
6、桐工作 1939年〜1940年

これをみて奇妙だと思わない人はどうかしています。仮に日本が中国を侵略したくてそうしたのであれば、なにゆえ和平交渉などもちかける必要があったのでしょうか? 国際世論を意識したたんなる外交的なポーズ? だとしたらなにゆえ何度もそうしたのか? また中国側が真に和平を望んでいたなら、なにゆえその度に拒否しつづけたのか? 心の底から平和を望んでいたなら、条件が少々不利なものだったとしても妥協するのが普通ではないでしょうか。ましてや開戦以来、負け戦続きだった中国です。力関係からいってもそうするのが当然だったはずではないでしょうか。

しかし、どういうわけか中国はそうしませんでした。むしろ強気で交渉に臨み、なにやかや理屈をつけては一方的に交渉を打ち切るという高飛車な態度をとり続けたのは中国側です。

これをみるかぎり、中国は和平など望んでいなかったように見えます。日本と中国、戦争を望んでいたのは本当のところいったいどちらだったのでしょうか?

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