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15分間中国近現代史 国共内戦

(たぶん?)日本一カンタンでわかりやすい中国近現代史
豊富な写真と平易な文章で流れがつかみやすい

これはAmazonのkindle本『2時間で読める中国近現代史』(歴史ニンシキガー速報発行)に収録されている国共内戦編を抜粋したものです。


「報恨報徳」演説

日本が降伏した1945年8月15日、蒋介石は「恨みに報いるに恨みをもってするなかれ」とラジオを通じて国民に呼びかけた。有名な「報恨報徳」演説である。それまでの日本軍の行為を思うとき、その高邁な精神と度量の大きさには誰しも感服の念を禁じ得ないであろう。事実、「満州」を除く中国大陸に駐留していた日本兵のほとんどが無事日本へ帰国できたのは蒋介石のこうした寛大な処置に負うところが多く、そのため強制抑留を行ったソ連などと引き比べ、今でもそのことに感謝している日本人は少なくない。

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ラジオで呼びかける蒋介石

しかしである。そこに蒋介石一流の政治的計算が働いていたこともまた否定することはできないのである。政治的計算の背景にあったのは、日本軍の遺産ーーなかでも関東軍の武器と満州の重工業地帯ーーをめぐる国共の争いであった。もしも、中共がこれを独占したら…。蒋介石が怖れたのは、まさにこのことであった。そうした事態を防ぐためには、日本軍の急速な瓦解は避けなければならず、もうしばらく国民党の側に引きつけておく必要があったのだ。

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満州に進軍したソ連軍

ところが、日本降伏が報じられた8月10日、中国共産党は早くも東北に向けて進軍を開始した。そして、すでにそこを制圧していたソ連軍とともに日本軍の武装解除にとりかかっていた。蒋介石はこれを命令違反だとして強硬に非難したが、中国共産党側は、「日本軍の69%(東北四省を含めず)、傀儡軍の95%を迎え撃ったのはわれわれである」と具体的に数字をあげて反論、日本軍武装解除の権利を主張して譲らなかった。このため華北では国共両軍の衝突事件が頻発し、内戦の危機が高まった。

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アメリカの援助で満州へ移動する国民党軍


重慶会談

だが、うち続く戦乱にうみ疲れた国民の間に内戦反対の声が広がるなか、政治的主導権を握ろうとした蒋介石が和平交渉を提案。中国共産党もこれに応じ、8月28日、蒋介石・毛沢東による初めての歴史的な国共首脳会談が重慶で開催された。交渉は難航をきわめたが、42日間にわたる双方の和解への努力と共産党側の「譲歩」の結果、合意点を「紀要」という形にまとめて発表することができた。10月10日に締結されたため、俗に「双十協定」と呼ばれる。協定では「内戦回避」と各党派からなる「政治協商会議」の開催などが一応合意された。だが、これはほとんど「紙の上」の合意に過ぎず、その後、各地で衝突事件が発生し、再び内戦の危機が高まった。

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重慶での毛沢東と蒋介石

学生と都市住民が内戦反対に立ち上がり、アメリカもマーシャル前参謀総長を調停のために中国へ派遣した。翌年1月10日、マーシャルの調停によって先の双十協定でうたわれた政治協商会議が開催された。会議に参加したのは、国民党八名、共産党7名、民主同盟9名、青年党5名、無党派9名の合計38名。右派や中立派も多く含まれていたが、国共の比率8対7という数字には中国共産党の政治的台頭が明確に示されていた。実際、ここで取り決められたのは、要は各党派からなる連合政府案であったが、これは以前から共産党が主張していたことでもあった。

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重慶から戻った毛沢東


再び内戦

開戦当初、国民党の兵力はおよそ430万。これに対し、紅軍(のちに人民解放軍と改称する)は120万程度。さらにそれぞれの武器や支配地の人口を考慮すれば圧倒的に国民党が優勢だった。しかも国民党のうしろにはアメリカが控えており、ソ連すら公式には国民党支持を表明していた。自信満々の蒋介石は「半年以内に中共軍を壊滅させる」と豪語、実際5か月後の47年3月には、解放区の首都延安を占領してしまった。しかし、この表面的な勝利はかつての日本軍が陥ったワナとまったく同じだった。すなわち蒋介石が得たのは「延安の抜け殻」に過ぎず、肝心の共産党首脳および紅軍勢力はあいかわらず無傷だった。さらに他の占領地区についても都市とそれを結ぶ交通線、いわゆる「点と線」は押えたものの、伸び切った補給線を確保するのに精一杯で、そのまわりの広大な農村地域についてはまったく手がつけられなかった。

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人民解放軍

毛沢東の理論によれば、こうした戦略的撤退のあと戦略的対峙の段階に入り、さらにその後、戦略的反攻へと進むのだが、今回は対峙段階の主要任務である解放区の建設がすでに支那事変時代、ほぼ完成していたこともあって、それほど長い対峙段階を必要としなかった。そのため、延安が占領されてわずか2か月後の5月には、東北で局地的反攻が開始された。ついで7月には劉伯承、鄧小平らに率いられた人民解放軍の大部隊が黄河を越えて華中へと進撃を開始した。内戦2年目にして早くも全面的な反攻段階へと入ったのである。

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空爆を避け、延安から脱出する毛沢東

三大戦役

内戦の帰趨を決したのは、48年秋から翌年のはじめにかけて行われた三大戦役であった。48年9月、林彪率いる東北野戦軍は50万の国民党軍を長春と瀋陽で包囲殱滅、大量のアメリカ製武器と弾薬を手に入れた(遼瀋戦役)。また11月には徐州を中心に布陣していた国民党軍の主力80万が60万の人民解放軍によって2か月にわたる激戦の末、殱滅された(淮海戦役)。ついで翌年1月には南下した東北野戦軍が天津を解放、さらに北京を守備していた溥作義将軍を説得して無血開城させた(平津戦役)。

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人民解放軍の指導者たち

それにしても、これほど急速な反攻を可能にしたものはなんであろうか。理由として挙げられるのは、まず土地革命により農民を味方につけたことである。地主の土地を没収し貧農や雇農へ分け与える土地革命は、第二次国共合作の成立に伴い、一時中断されていたが、1946年5月から再び実施されていた。この土地革命によって土地を得た農民は必然的に共産党支持、反国民党の側に立った。そして、国民党の支配は地主の復活と報復を意味したため、多くの若者が、革命の成果を守るため人民解放軍へ自ら志願して続々と入隊したのである。

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