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美女と野獣の系譜学(アダプテーション論)

はじめに

2023年1月17日(火)17:20より19:00まで野崎歓氏による講演会があった。上智大学ヨーロッパ研究所の主催で小川公代氏が窓口になって野崎歓氏に出講依頼した型である。オンラインでの講演会は、学生の授業であるとともに、一般の方にも公開された。野崎歓氏がコクトーの「美女と野獣」を例に取って原作のある物語が映画になるにあたって、どのような変容を遂げるのかを解説した。

美女と野獣のもとは民話である

美女と野獣は、コクトーが書いたものではなく、ディズニーが作り出したものでもない。古くからの民話がもとになっている。そして原作本が書かれた。
そのあらすじは、家庭教師と女生徒たちの対話という形式=教育的・教訓的物語である。嵐で迷った父親が、魔法の城で一泊した際野獣の怒りを買い、娘を身代わりとする約束をして帰宅。末娘のla belle(一般名詞では美女を意味する)を城に3ヶ月滞在させる。ベルは野獣la bête の求婚を拒み続ける。ベルが1週間の約束で父を見舞いに帰宅。ベルが戻らないので、野獣は瀕死の状態に。戻ったベルが野獣に愛を打ち明け、野獣は王子に変身して、めでたしめでたしというものである。

美女と野獣のアダプテーション史

美女と野獣の原作本は、文字だけの本であり、子どもにとっては、野獣とはどのようなものか分からなかった。その後印刷技術の進展もあり、色々な画家たちが挿絵を描くようになる。当初は、現在のイメージから遠くかけ離れた野獣の表象であった。その後、色々な画家が色々なバージョンを作り上げたが、決定打はなかった。そこに登場したのが、コクトーの映画である。1950年に公開されたものである。コクトーは、まず美術担当のクリスチャン・べアールに依頼し、野獣を造形してもらった。しかしながらビジュアルが決定したから作品が出来上がる訳ではない。脚本が必要であるし、配役も決めなくてはならない。監督はコクトーで良いにしても。
配役は、ジャン・マレーが選ばれ、1人3役をこなした。原作には登場しない「アヴナン」というキャラクターを作り、アヴナンが野獣に、野獣が王子にという二重の変身の物語である。

アダプテーションは変身の術である

まずはアダプテーションの概要を説明する。
アダプテーションは、時に脚色、翻案、改作とも表現される。昔、アダプテーションは、副次的、派生的なものであると見くだされていたが、それは創作意欲に富むロマン派の人々によってなされたものである。翻案のプロセスとしては、「解釈」と「創造」であり、その結果「作品」が生まれる。それはそれ自体で独立した美的存在でもあるが、本質的に二重(または多重)の層からなる作品で、領域横断的な運動の連鎖である。小説が映画になったり、映画が舞台になったり、映画がゲームになったりが、その現象である。

アダプテーションは、こちらが「二重性(多重性)」に気づかなければ、アダプテーションとしては存在しないといえる。しかしながら。そうとは気づかなくても我々の日常は、実はアダプテーションに取り囲まれているのだ。
ひょっとすると、人間の営みの根幹にあるのは実のところ、全てアダプテーションによる変身の術なのではないだろうか。

オウィディウスの『変身物語』

ローマ時代のオウィディウス(紀元前43〜17/18)の作品は、その後のヨーロッパ文学の基幹を構成したと言えるが、彼の用いたメタモルフォーズ(ナルシスが水仙に、エコーがこだまに、ダフネが月桂樹に変身)は、アダプテーションと呼べるのではないか。更に、オウィディウスは輪廻転生のようなことにまで言及している。

魂はさまよい、あちらこちらへと移動して、気に入った体に住み着く。獣から人間の体へ、人間から獣へと移り、決して滅びはしない。
柔らかな蝋には新しい型を押すことができる。
それはもとのままではいられないし、同じ形を保つことはできないが、しかし同じ蝋であることには変わりがない。それと同じように、霊魂も、つねに同じものではありながら、いろんな姿の中へ移り住む
それが私の説くところだ。
『変身物語』巻十五

この講演に際して、沢山の質問が寄せられた。
コクトー映画とディズニー映画を比較するものが多く、アダプテーション論自体に対する質問もあった。

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