プロローグ
俺が十一歳の秋、母さんが逝った。
乳がんで四年の闘病の末、俺が学校に行っている間に眠るように旅立った。
苦しんではいなかったと、後から祖父、鹿沼喜六に教えられた。
葬式の日は冷たい雨が降っていた。あの日以来、雨が苦手だ。
ひっきりなしにやってくる弔問客、その中に父さん(アイツ)を探したが見つからなかった。
葬式が終わる頃にはすっかり夜になってて、俺は意味もなく家の中を歩き回った。
じいさんは部屋に引き籠もったままで、広い家に独りきり。
寂しいというより落ち着かない。眠くもなかったし、部屋でじっとしているのも嫌だった。
ひたひた、ひたひた。
自分の足音だけが聞こえる。
心配したのか、まだ子犬だった白と黒の二頭が俺の後を追いかけてくる。
足音、それ以外に音はない。
足裏に伝わる板の感触は今もはっきり思い出せる。冷たくて、足先が痺れたみたいにじんじんした。それでも、俺は歩き続けた。
ここから先の記憶は夢だろうと思う。
暗い廊下の向こう側に俺によく似た、というか、俺と同じ顔をした、当時の俺より小さな男の子がいた。
好きだったキャラクターがプリントされた青いTシャツ。見覚えがある。あれは俺のお気に入りだった。
「いつ死ぬんだろう? いつ解放されるんだろう? もうそんなことで苦しまなくて良くなったね。嬉しい? 悲しい? ねえ、どっち?」
子どもっぽい甘えた喋り方なのに、言葉が針のように突き刺さる。
どういう意味? 解放されたって何?
頭にきた。言い返そうとしたが、口がパクパクなるだけで言葉が出てこない。
喉がヒリヒリする。たまらなく寒いのに、汗が噴き出してきた。
「ねえ? どうせ置いていかれる。どうせ一人になる。ならいっそ早く死んでって、そう思ってたでしょ。だから僕が出てこれたんだよ。僕を呼んだのは君、君だよ。さあ、自由にしてあげる。おいで」
男の子が近寄ってくる。回れ右して逃げるべきなんだろうが、足が動かない。
気持ち悪い、とにかく気持ち悪い。
吐き気がする。殴られたみたいに頭が痛くて、耳鳴りがする。
ガンガンガンガン
キーン、キーン
黒板に爪を立ててひっかく時の音と道路工事の時に聞く大音量。そんな音が頭の中で響いている。
「ずっと思っていたでしょ? 治すから、元気になるから、負けないから。あれは嘘だって、だから……」
うるさい、うるさい。
頭が痛い。音と音が重なり合ってガンガンする。
「うる……さ……」
喉が震えて声がでない。
助けて! じいちゃん、助けて!
叫ぼうとした瞬間、温かな何かが俺を包み込んだ。
「君のお母さん、紗冶子は今も君を思っている。何も心配しなくていい」
柔らかで穏やかな男の人の声。目元を覆われたようで、目を開けても何も見えない。
「あれは君ではないし、背負う必要はないもの。あれは存在しないもの、見えないし聞こえない。これは悪い夢だから」
「夢?」
口を開いた途端、しょっぱい液体が流れ込んできた。
泣いているのだと分かった時にはもう手遅れで、我慢しようとしたが無駄だった。
「安心しなさい。紗冶子は必死に生き抜いて、そして旅立った。誰かのせいでああなったのでもないし、君が悪いわけではない」
しゃくり上げながら目を開けると、小さな男の子の姿はなくなっていた。
廊下の片隅で白黒コンビが震えている。目の前には紺色の着物を着た髪の長い男の人がいる。
すっきりとした顔の綺麗な男の人だ。長い髪を束ねて背中に流し、俺に向かって微笑んでいる。
頭痛、吐き気、耳鳴り。
綺麗さっぱり消えていた。ただ涙と鼻水が止まらない。
「喜六の奴、こんな時に悠人を一人にするなんて困ったものだな。後で叱っておくから、今は許してやってくれ」
鹿沼喜六、これはじじいの名前で俺の名前は鹿沼悠人。
優しい声と微かに香る桜の香り。秋で、花なんか咲いてない。なのに温かな空気と甘い優しい香りに包まれて俺は泣き続けた。
気づけば朝で、布団の中で白黒コンビと丸まって寝ていた。
あの後、じじいに訊いてみたが
「桜に化かされたのだろう」
と、言われただけで、まともに取り合ってくれなかった。
あれから三年あまりが経過した。
広い家で俺はじじいと、二頭の猟犬と暮らしている。
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