偽善 ⑦

「面倒な男だな、お前は」
 ビール片手に長谷が鼻を鳴らしてそう溢す。
「すまん。さすがに編集長には相談できん。言えば書かないは通らない」
 場所は自宅近くの居酒屋だ。
 私は長谷を相手に、弁護士事務所であったことをぶちまけて愚痴を溢した。
 こんな真似が許されるのは長谷が元ジャーナリストで業界について熟知しているからと、現役ではないため、すっぱ抜かれる心配がないからだ。
 こいつとは大学を出た後に入った最初の会社、新聞社で知り合った。
 私が先にその新聞社を退職して今の週刊誌に鞍替えしたのだが、長谷は社に残り記者を続けていた。五年ほど前に辞めて今は小さな会社を経営している。
 新聞社で培ってきたノウハウを生かして、小売店向けにホームページやウェブ広告をデザインする会社を立ち上げて、そこそこ業績を伸ばしているようだ。
「上に報告して上が指示する通りに書く。それが嫌なら資料を誰かに投げて書いてもらえ。難しく考えるようなことじゃない。少しは楽する方法を覚えろ」
「長谷、そういうことじゃない。書けば利用されることになる。それが我慢ならん」
「利用されるって誰にだ? 犯人か?」
「そうだ。手を汚す人間にもそれ相応の理由があるなんて、そんなのは被害にあった人間からしたらどうでもいい話だ。まして被害者は何も知らない子ども、それに妥当性を与えるようなもの、書けるわけがない」
「書けるわけがないじゃなくて、書きたくないが正解だろう」
「どちらでも同じ意味だ」
 長谷相手だとどうしても口数が多くなる。長谷は昔から聞き出し方が上手い。
 そんな男がジャーナリストを辞めた理由、それを思うと些か暗い気分に包まれる。
「お前が書かなくてもいずれ他の誰かが書く。ろくに取材もせず、話を誇張して面白可笑しく話を仕立て上げて記事にする。それくらいなら自分が書いたほうがマシ、そうは思わないのか?」
「事実をありのまま書いたところで何も伝わらない。一連の話を紐付けたら世間は葉山に同情する。そして、殺された理由を被害者に負わせるんだ。そんなものを世に出すのは無責任すぎる」
 感情にまかせて飲んでいるせいか、珍しくペースが速い。そのせいか、普段言わないようなことをべらべら喋っている気もする。長谷はそんな私を見て、鼻を鳴らしてこう言った。
「無責任か。田所、お前、ジャーナリスト、辞めるか?」
「は? いきなりなにを……」
 はっきり否定しない自分に、内心驚いていた。数年前なら即答で「そのつもりない」と、そう言っていただろう。
 数分の間を洗い流すように長谷がビールを飲み干して、テーブルの上に名刺を置いた。
「会社が、思ったより順調で人を増やそうと思っている。店の宣伝とか商品のリサーチ記事を書ける人間、それで、声を掛けてみようと思ってな。まあ、給料は今より少し下がるだろうが、数年で取り戻せる状態になると思う」
 ――辞めるつもりはない。
 そう言い切ることもできず、私は名刺を手に取った。
「ジャーナリストってのは、因果な商売だ。社会正義を掲げながら、その実それとまったく逆な作用を齎す場合がある。俺はそれに耐えられなくなって辞めたんだかな」
 そう、ジャーナリストも結局は商売なのだ。
 社会正義とか報道の義務とか言いながら、金になるものを提供しなければ仕事として成り立たない。金にするためには――。
 その先を考えるとさすがに気分が沈んできた。
 久しぶりに古い友人と飲んでいるせいもあって気が緩んでいたようだ。翌日、ひどい二日酔いで苦しんだ。
 幸いなことに午前休を取っていたので、会社で醜態をさらすのは避けられた。
 佐山弁護士事務所に行った後、私は編集長に型どおりの報告をして、適当な話をでっちあげて記事を書いた。
 私が書いたのは、犯人葉山が親切心から幼い少女を預かり面倒をみることに苦痛を感じていたこと。そしてそのことを鈴木夫婦に打ち明けることもできずに発作的に愛美ちゃんをてにかけた可能性、それについて言及したものだった。
 案の定、没を食らった。
「新情報はなし。ただのご近所トラブル、面白くもない記事だな」
 編集長はそう言って、私の原稿をシュレッターに突っ込んだ。
 これで終わり。
 私はそう思い込もうとしていた。
 
【十二月十日 公判】
 
 公判の日、私は傍聴席にいた。
 世間の関心が既に失せていたとはいえ傍聴を希望する人はそれなりの人数で、朝早くから列に並び順番を待った。
 傍聴席にいるのは大体は顔なじみの記者仲間ばかり。
 最前列には鈴木氏以外にも、団地の関係者や彼の友人と思しき人の姿がある。あのマスターもいた。だが、愛美の母である百合子夫人の姿はなかった。
 鈴木愛美ちゃん殺人事件は発生後約二ヶ月、漸く公判を迎える。
 これから起こるであろうことを想像すると、すぐにでも席を立って帰りたくなったが、記者としての意地のようなものが私にもあるらしく、立ち去る気にはなれなかった。
 ただ一つ、決めていることがある。
 決して擁護記事は書かない。如何なる理由があろうと、犯罪者を擁護するようなものを世に出すつもりはない。それだけは硬く心に決めていた。
「それでも止められんだろう」
 本音が漏れた。
 そう。想像通りなら葉山はこの裁判で全てを白状するはずだ。
 私はそれを見に来たのだ。
 十二月半ば、もう随分寒くなった。傍聴席に座る人を見ればセーターやコートを着込んでいる人もいる。
 今回、弁護を担当するのは佐山宏明弁護士。元々は犯罪被害者救済を専門とする人で、犯罪者に対しては厳しい姿勢で臨む人格者として知られる。
 その佐山弁護士が葉山の弁護を引き受けたのは異例のことだ。
 起訴状が読み上げられると、葉山は深々と頭を下げてはっきりと答える。
「間違いありません。私がやりました」
 この言葉に傍聴席にいた鈴木氏は立ち上がり何かを言おうとしたが、近くに居た人に止められ椅子に座り直した。
 被害者意見陳述の際、証言台に立つのは鈴木氏ひとりだけだ。
 このとき、既に百合子さんとは離婚しており、鈴木氏の名前は現在は荻野透になっていた。
 鈴木と言うのは百合子さんの姓であり結婚後に下の名前と合わせて鈴木透に改名したそうだ。元々の名前は「荻野徹」。
 葉山にとっては一生忘れることができない名前に違いない。
「やはりか……」
 思わず呟いてしまう。前に座っている人が振り返って唇に指を当てて私を睨んだ。
 会釈して、証言台に立つ鈴木氏の顔を見る。
「許せません。許せるわけがない。愛美はまだ五歳でこれからだったんです。来年には小学校に上がる予定で楽しみにしてて、それを奪ったんです。俺の生活も事件以降一変しました。妻も家を出ていった。何もかも奪われた。許せるわけがない。極刑を望みます」
 胸に愛美の写真を抱えて涙ながらに彼が陳述する。釣られて涙ぐむ人までいる。
 私は、何とも言えない複雑な心境で葉山の顔に視線を向けた。
 葉山は俯き咳払いをし、口元を手で隠してはいるが、確かに笑っている。
 少なくとも、私にはそう見えた。
 佐山弁護士が隣に座る葉山を見詰めて首を振っている。葉山は佐山弁護士に頭を下げてから証言台に立った。
 意見陳述が終わり、被告人尋問が始まる。
 葉山が検事、弁護士の双方から尋問を受ける。公判は問題なく進む。全面的に罪を認め、情状酌量も心神耗弱も訴えず、淡々と同じ回答を繰り返していた。
「愛美ちゃんには悪いと思っております」
 深々と頭を下げ、終始詫びの言葉を言い続ける。
 最終弁論に差し掛かったとき、葉山が手を上げて自ら裁判官に願い出た。
「愛美ちゃんの父、荻野透さんにどうしてもお伝えしたいことがあります。お許しいただけますか」
 裁判官はこれを許可した。そのとき、葉山は笑ったのだ。口角を吊り上げ目尻を下げて、満足そうに誇らしげに微笑んだのを私は確かに見た。
 うすら寒い物を感じる。とても、まともにあの顔を見る気にはなれない。
 何も知らない幼い子どもを手にかけ、この男は内心では満足しているのか?
 そう思うと怒りより何より、恐ろしいと感じてしまった。
「荻野さん、覚えとりますかぁ」
 葉山が顔を傍聴席にいる透氏に向けて喋り出した。
「十五年前です。十五年前にあなたは私に手紙をくれましたな。当時十四歳でしたか。私も若かった」
 透氏が首を傾げている。葉山はその顔をじっと見て、少し間を置いてからまた再開した。
「あんたはまだ十四歳の子どもで私が被害者側だった。ねえ荻野さん、あんた、十五年前は裁かれる立場だった。私と逆ですね」
 彼の顔にはそれまで目にしたことのないような、笑みが貼り付いている。
 傍聴席の幾人かが息を呑み、透氏は立ち上がりかけて、再び隣に座る友人に止められていた。
「あんたは聖子と真奈美の写真を見ても思い出しもせんかったねぇ。うちの真奈美は大きくなることもできずに寒空の下で死にましたよ。あんたのせいでね」
 葉山が透氏を指差した。手錠を掛けられているので、両手を胸の位置に掲げて右手の人差し指を向けた。
 刑務官だろうか。裁判官を見ている。裁判官は静かに首を振った。
 佐山弁護士は動かない。座ったままだ。
「愛美ちゃんを殺害しようと思った動機は、あの人、あの荻野透さんのせいです。あの人は十五年前、私の妻と子どもを殺した犯人のひとりなんですよ。覚えてますかぁ? 十五年前のあの事件、ねえ荻野徹君、当時あんたは私に手紙をくれましたよねぇ。弁護士が書かせただろう、あの手紙を今も大事に持ってますよ。事件のことなんてすっかり忘れてしまってたようですが、被害者ってのは忘れんのですよ。忘れられんのです」
 この言葉に荻野透は青ざめて震え出した。
 側に居たマスターが、震える荻野を支えようと手を伸ばすが、その手を振り解いて傍聴席の木の柵にしがみ付き叫び始めた。
「愛美、愛美は関係ねえだろぉおお。あんた、あんたぁあああ」
 叫ぶ透を誰かが羽交い絞めにする。引き摺れ退席させられる荻野を見て、葉山はにんまりと笑ってから深々と頭を下げた。
「それでも愛美ちゃんには関係ないことです。あの子には何の罪もない。どのような裁きも受け入れます」
 葉山はそう言って、裁判官に頭を下げた。
 裁判は意外なほどあっさりと結審し終局を迎えた。
 第一回公判で有罪が確定し、あとは量刑を待つだけとなった。 
 裁判のあと、報道各社は一斉にこの事実を報じる。
 愛美ちゃんに同情しつつも、世間の人々は葉山の心理に同調したのか被害者遺族である荻野透を責め始めたようにも思えた。
「だいたい、そんなに子どもが大事なら他人に任せないでちゃんと面倒を見ていればよかったんだ。子どもを放置してさも愛してましたってツラしてもねぇ。説得力がない」
 そういう辛辣な意見もある。
 一週間ほど経った年の暮れ、何を思い立ったのか、私は久しぶりに団地に寄った。
 目的は「荻野透」、被害者の父親から話を聞くためだ。

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