空想や妄想を叩き落とした正解ありきの社会 【妄言】
リアルな映像、迫力のサウンド、豪華な声優陣。
昨今のゲームや映像作品はこんな謳い文句で売る。
いや、今はそれを土台にしてその上のことを宣伝してるか。
テクノロジーは受け手の想像(創造)力を叩き落とす
声の入っていないビジュアルノベル、音も動きもない漫画、絵すらない小説、絵も音も動きもないTRPG。
自分はそういうエンターテインメントから入った人だ。
今から比べるとなんとローテクでアナクロか。
ビデオゲームにしてもファミコン。
声は出ても限定的でチープ。リアルなんてほど遠い。
グラフィックだってドット絵の極みだし、音楽だって3+1chのチップチューン。
そこから発せられる情報量は今より断然少ない。
漫画にしても、そこには静止画と文字だけが存在する世界。
そこから場面の音は発せられないし、一枚絵のヒドく粗いパラパラムービーだ。
そこにある情報量も多いとはお世辞にも言えない。
小説にいたってはほぼ文字。
画像なんて本当に時折出てくるくらい。
動きも、場面の視覚情報も耳に聞こえる音声情報もない。
どんなに言葉を尽くしても、その一瞬の場面を断続的に書き表しているだけで、実は情報量自体は多くはない。
でも、間違いなくその「少ない情報」によって胸を打たれたり、夢中になったりした経験があるのだ。
今のエンターテインメントはともかく情報が多い。
●精緻に作り込まれた、動く舞台映像。
●細部にまで作り込まれた精緻な音楽。
●登場キャラの発する肉声や細やかな表情。
臨場感を追い求めるそこにシステムの揺らぎやブレはない。
「リアル」であるがゆえに「遊び」がない。
ここで言う遊びとは隙間、余裕という意味だ。遊び心がない、と捉えられるのは心外だ。
ではその隙間や余裕には何が入り込むか。
それは空想、想像、仮定だ。
現代の作品においてもそんな物くらい出来るという人もいると思うが、ではその精緻に描かれたキャラの見た目や声、世界を見てからその設定を取り払ってもう一度その舞台やキャラを見直した時に、一度見てしまったその正解を当てはめてしまうのではないか。
このキャラはこうでしょっていう固定観念まで完全に取り払えるか?
「いつからそうだと錯覚していた?」ってやつだ。
海神蒼月、と聞いて青いショートヘアの赤いリムのメガネを掛けた女の子の代理ちゃんを即座に想像するのと同じだ。
実際には中身は違う。
でもそれを想像は出来ないだろうし、海神蒼月的にも名前に紐つけるのは代理ちゃんであって欲しいから意図的にそう誘導しているだけど。
でも、本当の意味でそれは正解ではないし、他の選択肢をあらかじめ奪っていることに他ならない。
物語にリアルさを取り込むというのは、そうやって広大な想像の可能性の中で、正解のキャラの見た目、正解のキャラの声、正解の舞台をあらかじめ提示してそこからブレないように他の選択肢を奪っているとも言える。
物語における設定とはルールだ。
元来何も縛りのない広大な想像力や可能性に制限をすることだ。
何でもありでは発信側も受け手側も見失う。
設定があるから解釈一致が生まれる。
設定(つまりは正解)が増えると言うことはそれだけ物語に制限が増えると言うことでもある。
遊びや揺らぎが減るというのはそういうことだ。
声優交代による違和感の正体はまさにそれ。
今まで唯一の正解として提示されてきた物が急に変わる。
信じていたものに裏切られたような気分になるのは当然だ。
例えば、世の中10進法で話していたのに、ある日突然「じゃあ明日から世の中全員16進法使ってね」と言われるような気分だ。
使えなくはないけど違和感が生じるだろう。
エンジニアとか16進法慣れしてる一部の人にはさほど慣れるのも苦でもないけど、そうでない人はストレスになるレベルで面倒くさいだろう。
世の中とにかく正解に溢れている。
今の世の中は張り巡らされた「正解」に導かれて作業をこなしているだけになってきてて、それが当然だと思い込んでいる。
ゲームをやるにも「攻略」という正解に沿って受動的に作業するだけになっていないか?勝つことが正解だし、偉いからと脳死でそれだけを追い求めてはいないか?時には不正(チート)をしてまでも。
勝ち組=正解・負け組=不正解の構図は当たり前だと思っていないか?
昔のゲームはクリアさせる気がない、鬼畜ゲー
だなんて言葉を聞く。
違うよ。
攻略という正解、最初からフルパワー(フルレベル)というチートを脳死で享受して、自ら解決しようとする思考や行動を放棄しているだけだ。
考えるのって面倒だもんね。当然だ。
楽して「オレ強えぇ!」ってドヤれるならそりゃ脳死だろうがチートだろうが手を出したくなるよな。ミスとか失敗とか、そらぁもう惨めだしな。
「負け犬乙」とか言われたら「お前が泣くまで殴るのを止めない」レベルで切れそうだもんなぁ。
ただ、確かに中には本当に物理的に無理な物も混じっているかも知れないけど、その可能性がゼロであることは中々無い。
それに打ち込み、ねじ伏せる努力をしないだけ。
レベルアップの時間を不正ですっ飛ばして脳死状態でつまみ食いするヤツのレベルなんてたかが知れているだろう。
チートを使って技術を磨くことを考えないヤツにスキルの向上はない。
それを棚に上げてクソゲーというのはあまりに短絡すぎるし、自分を含めて「昔は出来た」と言ってる人も、今はもうそうやって脳死作業エンターテインメントに慣れすぎた(技術の経年劣化・ブランクという側面もある)から、あの頃程考えて開拓して打ち込むことがなくなったというだけだろう。
もちろん、エンターテインメントなんて贅沢品だから、生きていく上での優先度なんて低い。
昨今はゲーム制作側も「気持ちよく」なって欲しいから数々の忖度を盛り込むようにもなったしね。ヌルゲーって言われるのも当たり前。
研鑽って何それ?新たな課金アイテム?
最初っから本当の強者になる芽は摘まれているって訳だ。やったね!
社会においても多様性は功績に劣る
という考え方が未だ根強い。
「その考え方や思いは尊いけど、実際結果出てないでしょ?」って言う言葉に賛同する人は少なくないんじゃないかな。特に社会人。
成功の見込みのない突飛とも思える思考や発言、行動は鼻をつままれ蔑まされるのが今の根底。
会社では結果がすべてだから、効率的で確実な物が好まれる。
それが、多様性こそ尊ばれるエンターテインメントや(広義の)アート作品にまで浸食している。
その上多数決(人気度合いを量るファン数など)の原理で潰され消されたクリエイターなんて星の数程居るのではないか。
もっとも、行動あっての話だろうけど過程より結果、というのが今の世の中。
正解こそが何よりも目指すものであるのだ。
だからこそ、人々は大きな声で叫ばれ、群がる人を見てアレが正解だと飲み込み、否定する人を不正解だからと蔑む。
原曲は正解だから、カバーやリミックスはクソ
と言わんばかりに、某アイドルゲームのカバー曲MVのコメント欄で非難コメントを見たことがある。
この作品を「~~」という風に捉えるのは間違い(不正解)だ
これらのワードに違和感がない人は今一度考えて欲しい。
音は音だし、歌詞なんて説明文じゃないんだからそこに「遊び」が生じるものであって「正解」なんてものはない。
あれこれ考察して知ったかぶりの論説を繰り広げようとも、作者が「これはこう言うものだ」と主張しようとも、ナンセンスだ。
あくまでも受け手が作品そのものにどういう印象を受けて、どう感じたかだろう。
それまで縛って強制的に矯正する物が文芸、芸術、音楽なのか。
正解や効率は悪ではない。でも全てではない。
善であるか悪であるか、正解か不正解か、それらは元々流動的で複合的な要素に依るものであるのに、恒常的であることと勘違いし、思い込み、あたかも全ての人間が同じであると勘違いするから、争いが起こる。
そんな単純なものでさえそうなのだから、感情なんて不確実なものに捉え方が左右される物が一辺倒な訳ないじゃないか。
ユーザーフレンドリーを謳い、ユーザーの思考を単純化し、叩き落とすのが「便利」の一側面である。
そうやって思考の単純化によって思考力のみならず、創造力や空想力がどんどん鈍らされて考えなくても生きられる世の中になっている。
楽だからいいや、に向上心はない。
向上心のない、挑戦しないものに何かを為し得るなんて思えない。
現状維持のためにもエネルギーが必要だっていうのに。
確かに時には諦めも大事だ。
そう、時と場合によるんだ。
諸行無常ってやつだよ。
まず自分の頭でその場を掴み、判断しないbotになるなら、機械に取って代わられてしまえ。
その方がよほど楽だろ?
それを生きていると胸を張れるのならば。
珍しく後書き。というか本音、お気持ち。
こんな話をするきっかけになったのは、文中にも出てきた「カバー曲は原作じゃないからクソ」的なコメントや、とあるゲーム実況者が他サイトの攻略を見ながらプレイしていたのを見たとか、Twitter記事に【30歳代以上が「うっせぇわ」を誤解する訳】的なトレンドを見たこと等々、何においても安易に正解を追い求める姿勢に吐き気を催したことと、自分も音楽を趣味にするものとして、「音楽の正解って何?」(うっせぇわ考察の件)って疑問でしかなかった事などに加えて、教育においては正解以外の道筋は無駄として全て切り払われ、視界をどんどん狭くしていることに危機感と憤りを感じたこと。
しかもその結果として今の視界の狭く考えの浅い、というより考えることに慣れていない輩が大量発生している現実に本当に危機感が生まれたからだ。
「危ないから~しちゃいけません」と危険を取り払い、安全で快適な環境を積極的に親や社会が用意して、何も起きない、対処の必要もない環境を作ることが教育であり、子育てであるという誤解からも来ているのだろうな。
失敗から学ぶという機会を綺麗さっぱり取り払うから精神は弱くなるし、抗うと言うことを知らずに生きる。
それでも不平不満は起こるけど、それすら周りが介入して解決するから本人は解決方法を知らずに育つ。
そんな甘ちゃんが通用する程世の中は甘くも綺麗でもない。
危険な物の扱い方もわからないから、あっさり大事件を起こす。
もちろんその危険物の中に情報も含まれる。当然だ。
だから踊らされる、疑わない。
不平不満を抱えても周りが解決してくれたのに大人になればその手をあっさり放される。どうしていいか分からないからストレートに投げつける。
自分が投げつけられた経験もないから、投げつけられた方の気持ちが分からない。だから安易に傷つける。その痛みも被害も分からないから。
ましてや周りがやればそれは正しいことだという集団幻覚に陥り、己の正当化をする。
脳も精神も経験も脆弱すぎるんだよ。
それが、誰しも肩身の狭い今の現状で浮き彫りになっているだけなんだろうな。
自分のように昭和を生きたオッサンが「今の世代は温室育ちだ」というその根底には、成長期に「やらかした経験」ってのがきちんとあって、それがトラウマじゃないけど、経験としてあって回避しているのよ。
「あんな思いは二度とごめんだ」ってヤツだ。それを幼少期や思春期にきちんと段階を踏んで経験してる。
大人の決めたルールをこっそり破るなんて、大人から見ればかわいい程度の悪さもしてきた。
そこには子供時代ならではの価値観や意思があった。
今はもう他人が用意した土俵を自分の物と錯覚し、バリエーションも乏しいのにそれが全てと思い込む視界狭窄状態にして正解だけを効率的にこなす機械代わりが増産されているなんてイメージもわいてしまう。
機械は空気を読まないし、エラーを素直に吐き出すでしょ?それで迷惑を被る人がいても自分ではそのエラーを修正しない。
真か偽かとデジタルな判断しかしないし、リニアなものの考えは苦手だろう。
人間なんて有機素材を使ったAIの廉価版なんてそのうち言われるんじゃ無いだろうか。怖いな。
希望があるとすれば、最近はそのヌルゲーはもうただの作業だと気がついて飽きやすいという風潮が起こって、挑戦しがいのあるものが(リバイバルやリメイクなのは悲しいが)リリースされてきているって事かな。
ゲームも物語も所詮空想、人工創造物。
どう頑張ってもリアルになれないのが現実なんだよな。
のめり込むのはいいけど、わきまえないから廃人になる。
まぁ、ねぇ。
自律して生きるとは言っても、結局は周囲との互助で生きていくことになる訳だし、世の中ギブアンドテイクというなら自分も何かしらの「ギブ」がなくてはね。
今はこうして思いを文に変換することが向いていると思うから、やっている。
とりとめないからここで終わろう。
オッサンは長話が好きだからね、ごめんよ。
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