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八風の戒めと二宮尊徳の報徳

いま日本の国政
大きなターニングポイントに面している
ように思えてなりません。

同時に、
能登半島地震で国民一人一人の
受止め方が被災者の心を想像し色々思考する人、と今の自分の
生活や楽しみだけを意識する人
の二極化していると受止めます。

私もそうでしたが身近に豊かさを感じていると意識が自己中心的に
なりがちです。

極寒のの中、
辛く厳しい生活をしなければ
ならない被災者の皆さんにせめて気持ちだけは寄り添いたいと言う想いの意識、と共に政治家が私達
国民の代表と言う意識を結果と
しておざなりにした派閥の裏金や
個々の政治家が、先ず一人の人間としての本来の姿である国民の代表と言う本質に心眼を向けて欲しいと考えて日蓮上人二宮尊徳の
教え
を転載しました。


自心と向き合う-日蓮上人『八風の戒め』

※以下、仏教学びのメモより転載

日蓮上人の教え八風の戒めには、
それぞれの人の心に吹く風利・衰・
毀・誉・称・譏・苦・楽
の八つの風
を指しています。

八風の戒めーイメージ図

「賢人は八風と申して八やつの風に
 をかされぬを賢人と申すなり。
 楽なり。心は利有るによろこばず、
 をとろうるになげかず等のなり。
 此の八風にをかされぬ人をば
 天はまほらせ給ふなり。」(四条金吾殿御返事)
と四条金吾に対して
お手紙を(したためられました。

四条金吾の信仰が深まるにつけ、
周りから嫌がらせ、中傷を受け、
主君からも誤解され数々の冷遇を
受けました。

信心堅固の四条金吾も、
信行の道は険しかったのでした。

案じられた大聖人は、
励まし、時には戒め、温情
溢れるお言葉を与えています。

法華経の修行者は、
喩え如何なる事態に遭うとも、
即ち、
八つの風に侵されても、
決して動じてはならない。

どのようなことがあっても
動じない人を賢人と言い、
必ずや天の守護があるであろう。
と、訓(さと)されたお手紙です。
その八つの風について考えてみます。

『八風の戒め』其々の凬の解説


1.「利」(うるおい)
 ・・・目先の利欲にとらわれる姿
 利の風=物心両面にわたる潤いの風。
 利することがあれば嬉しい、
 しかしいつまでも続くとは限りません。
 執着しない。

2.「衰」(おとろえ)
・・・老衰や生活に破れた姿
 衰えの風=心身、仕事など
 衰えてくると、弱気になるものです。
 人生、山あり谷あり一喜一憂しない。
 ことに老い病は人の定め受け容れる。

3.「毀」(やぶれ)
・・・他人に批判されて自己の信念
 を変えてしまう姿。
 毀れ、挫折、失敗の風
 =多くの人は落胆し虚しさを覚えます。
 失敗は人生につきもので、
 七転び八起きの精神で、
 その風を受け止める。
 挫折、失敗は、人を磨く砥石です。

4.「誉」(ほまれ)
・・・名聞名利にとらわれ、我を忘れた姿。
 誉れの風=
 誇りとするに足る風が吹けば、
 喜び、有頂天にさえなる。
 油断禁物、常に己を戒めて行くこと。

5.「称」(たたえ)
・・・賞賛されて増上漫になり、
 自分を見失うことをいう。
 称えの風=誉め、称えられれば、
 これまた喜び、過ぎると慢心になります。 
 謙虚でありたいものです。
 とかく人は「おだて」と
 「もっこ(担がれること)」には、
 すぐ乗りたがります。
 最高の状態にあって尚、
 己れを戒めるということは、
 容易なことではありません。

6.「譏」(そしり)
・・・他人からそしられ、
 自分を見失うことをいう。
 譏りの風=非難、中傷の風。
 譏られれば、良い気持ちはしないものです。
 特に身に覚えが無い場合は、尚更です。
 「成らぬ堪忍、するが堪忍」
 という言葉がありますが、
 堪えがたきを堪え、忍びがたき
 を忍ぶ修行は大事です。

7.「苦」(くるしみ)
 ・・・人生の苦境に負けてしまった姿。
 苦しみの風=生きるということは、
 苦しいものです。
 「譏りの風」同様、多くの苦しみ、
 試練を乗り越えてこそ人は
 強く逞しく成長するもの。
 苦しみの風に、振り回されない
 ようにしたいものです。

8.「楽」(たのしみ)
・・・享楽に負けてしまった姿。
 楽しみの風=嬉しいものです。
 しかし、いつまでも続きません。
 くれぐれも、楽しみの風に
 振り回されないようにしましょう。

以上、8つの風について述べました。

二宮尊徳-報徳の教え

二宮尊徳像

※以下、学びのメモより転載。

報徳の教えとは、
二宮尊徳が独学で学んだ神道・仏教・
儒教などと農業の実践から編み出した、
豊かに生きるための知恵である。

神仏儒を究極的には一つに至る
異なる道に過ぎないと位置づけ、
神仏儒それぞれの概念を自由に
組み合わせて説かれている。

そのため報徳の教えを報徳教と
呼ぶことがあってもそれは宗教
を意味するものではない。

報徳の教えの中心的概念は大極である。
この大極にそった実践を行う
ということが報徳教の根幹をなす。

二宮尊徳はこの大極を
『三才報徳金毛録』のなかで円を
描くことによってしめしている。

この円を分けることにより、
天地・陰陽などの区別がうまれる。

つまり、
大極とは総てのものが未分化な状態、
一種の混沌状態をさす。

大極は常にそこにあるものであるため、
人間が何をしようが常に大極と共にある。

しかしながら、
人間は我であるため常に大極と何らかの
関係をとらなければならない。

そこから大極に対して積極的に
向かう姿勢である人道と大極に
消極的に向かう天道の区別が生まれる。

天道にのみ沿って生きる時、
我である人間を支配するものを
【人心】
と呼び、
人道に沿って生きる時我を支配するものを
【道心】
と言う。

人心は我欲にとらわれたこころであり、
欲するばかりで作ることがない。

このような心の状態でいる限り
人間は豊かになることができない。

道心にそった生き方をして始めて
人間は人心への囚われから解放され、
真の豊かさを実現できるのである。

ここで重要なのは、道心に沿った
生き方というのが何処までも実利的・
実用的に説かれているところである。

道心は、それが善だからなどの道徳的
な理由で選択されるべきものなのではない。

報徳教は単に人心に従えば衰え朽ち、
道心に従えば栄えるという道理を
説くに過ぎないのである。

至誠・勤労・分度・推譲

道心に沿った心の状態を報徳教で
【誠】と呼ぶ。

この誠は儒教で言うところの徳や仁
と言う概念に等しいものである。

つまり、
大極に対して積極的に向かっていく
暮らしとは、まず誠を尽くしたもの
でなければならない。

我の心を大極と積極的に関わる状態、
つまり誠・徳・仁の状態に置くことを
【至誠】と言いこの至誠が、まず実践
の第一を成すしている。

この至誠の状態で日常生活のすべての選択
を行っていくことを【勤労】と呼ぶ。
至誠が心の状態を指すのに対して勤労
それが行動になって現れた状態を指す。

そのため、
勤労とは働くことを含むが、ただ
単に働くことを指すのではない。

勤労することで
日常の総ての行動が誠の状態から行われる為、
当然それは消費活動にも現れる。

無駄がなくなり、
贅沢を自ずから慎むようになる。
これを【分度】と言う。

つまり、
分度とは、けちをすることではなく、
至誠から勤労した結果に自然と使わざる
を得ないもののみを使うことを意味する。

そして、
最後に分度して残った剰余を他に
譲ることを推譲と呼ぶ。

分度と同様に、推譲は単なる贈与
なのではなくて、至誠・勤労・分度
の結果のこったものを譲って初めて
推譲になるのである。

実践としての報徳の教え 

以上のように、
道心を立てた結果として、
至誠・勤労・分度・推譲を行って行く
ことではじめて人は物質的にも精神的
にも豊かに暮らすことができるという
のが報徳教の根本的論理である。

ここで論理という時、
それが教えそのものでないこと。

報徳の教えの真髄とは、
これらの至誠・勤労・分度・推譲の実践
の中でいかに徳が徳によって報われて行く
かということを見極めることにある。

この実践のなかで初めて理解できる
言語化できないものこそに報徳の教え
の真髄があり、尊徳が「見えぬ経をよむ」
の言葉で示しているのはこのことを言う。

また
尊徳が、単に本を読むだけで実践に
繋がらない態度を諌めて「単なる本読み」
になってはいけないと語ったのも同様の
事情によるものである。

二宮尊徳は
天道・人道ということを教えています。

一切衆生は四順を愛欲し、
四違を忌避しようとするため
に煩悩に侵される。 
四順(利・誉・称・楽)
四違(衰・毀・譏・苦)

勤労
天道とは春夏秋冬、
夜昼、晴天・雨天等、自然の現象を指す。
植物は土により
発芽し日光と水の力で生育します。

そして、この植物を動物が食べ物と
し生きて行きます。この循環が天道です。

人道とは、この自然循環の中で、
人類は種である米、栄養を貯蔵した大根
など、人間の役に立つものをより分け、
水、肥料を与え、雑草を除去し防除し、
収穫を多く得ようとしまがこのように
人が手を加え、自分達の利益のために
行うことを言います。

人道は、
人間の意志がなければ、行われません。
この意志を継続し、
保持し行為して行くことが勤労です。

分度
二宮尊徳は、
農村の復興を計画する時、その農村の
生産量を過去に遡って調査しています。

そして、
その地域の生産量を数値で把握し、
この現状認識から生産者、領主の
取り分を契約しています。

個人についても、夫々の分限を守り、
相応の生活をするということであり、
収支のバランスをとった生活を勧め
こうした数値で支出を定めることを
分度と言っています。

まず至誠と勤労を以って収入を増やし、
これに見合った支出をするという順番で、
計画の策定を重視しているところが、
近代の経営を思わせるところです。

推譲
分度を確立した上で、
それ以上の収入があれば、余剰が出ます。
この余剰の一部を将来のために譲ること
推譲と言います。

自分の子孫のために譲ることは
比較的容易ですが他人の為に譲ること
は中々難しいことですが、二宮尊徳は、
これを推進しました。

そうしたことが出来る為には、
心の田「心田」の開発が必要と言って
いますが、尊徳の周辺にはこうした
人物が多く育ちました。

そしてこうした推譲金を灌漑事業、
に充てた結果、干ばつ・洪水の心配
もなくなり自己の作物の収穫量も
増え村や社会が豊かになって自分
に還元されるという成功サイクルが
実現していきました。

その後、尊徳の継承者達は尊徳の思想
「報徳運動」として実践し広めました。

今も各地にある報徳運動は、尊徳の教え
が現代まで続いている実際活動であります。

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