クラスタ炎上事件に思うこと

 最近、Twitterでクラスタ関係が炎上しているのを見かけました。

 クラスタというのは、小説投稿サイトにおいて不正にポイントやPVを稼ぐ行為の事で、最近ユーザーによる取り締まりが厳しくなっています。普及しない投稿サイトで読みあいイベントを行うような行為も、クラスタとして認定されてしまうケースもあるようで、観察している限りアレルギー反応を起こす人はけっこう多いようです。

 察するに、公平を重視する事を教え込まれた結果、がんばってるのに読まれないことに対する不平不満が、他者への攻撃性に転嫁されているのでしょう。

 僕もまったく何もないところから投稿を始めたので、読まれない苦しみは知っています。自分は書いても読まれない。でも他の人はどんどん読まれて上に行く。

 それに釈然としないのも、まぁ百歩譲って理解できます。

 じゃあどうしていくのが正解なのか。

 少なくとも、そんな時に他の人を攻撃して足を引っ張るのはさほど良い方法ではありません。

 一つ思考実験をしてみましょう。足を引っ張る人々の主張通り、もしもその人が実力もないのに読者数やポイント数を稼いでいたとして、それが要因でデビューできたとしましょう。

 しかし、プロの作家さんたちは、全員何らかの厳しい選別を潜り抜けた人たちです。もしも足を引っ張る人の主張通りだったとして、その作家はプロ作家として生き残れるでしょうか?

 なろうで上位を取る、あるいは何かの公募で選ばれるというのは、作家になりたいという目的をもつ僕らにとって、目標の一つではあります。しかし、プロ作家になる以上、それ以降も作品を継続的に産みだし、それを誰かに買ってもらって生活していかなければなりません。

 もしも人脈があったとしても、消費者が買うとは限りません。

 わざわざあなたが手を下す必要はないのです。実力があっても生き残れるとは限りませんが、実力がなければ確実に脱落するでしょう。


 もしかしたら、相手がルールを守っていないという主張もあるかもしれません。

 しかし、ルールを定めたのは運営であり、我々はそれを守る参加者にすぎません。
 そのルールを執行するのは運営の役割であり、僕らではありません。犯罪が犯罪であると最終的に決めるのが市民でも警察でも検察でもなく、裁判所であるように、僕らがルールを執行するのは違うのです。

 個人的な正義感から来る私刑は、残念な事にネット上ではまだ黙認されている節があったりしますが、実際は憲法のレベルで禁止されています。

 そんな行動をして、得な事など何一つありません。


 作家志望者は、日本全国に10万人規模で存在しています。高校が1校500人と計算すると、だいたい400校分ぐらいの規模でしょうか。

 インターネットが発達して、すごい人と身近に触れ合えるようになっているせいか、その規模感や距離感を見失ってしまう人がいます。
 しかし、僕らがすごい人たちの領域に到達するためには、その規模の中で、何らかの分野で上位に行かなければなりません。それは簡単な事ではないでしょう。
 あなたがその場に立てていないのであれば、あなたにはまだ足りないものがたくさんあります。

 他人の足を引っ張っても、僕らの実力は伸びません。上位を一人蹴落としたところで、あなたはその後釜にはなれないのです。

 似たような競争は、社会に出たらいくらでもあります。ライバル商品からシェアを奪う方法などは、社会のエリートたちが研ぎ澄ましてきた領域で、自作品の広報に応用できる方法は、それこそ山のようにあります。

 例えばテレビのCMなんかは、大まかに言って三段階に大別できます。

1 知ってもらう段階(Know me)
 CMでは商品名を連呼したり、とにかく消費者に知ってもらう事を目的にしているのが特徴。
 投稿小説の場合は、トップ画面でタイトルを長くして読者の興味を引く、なろう運営が推奨するようにTwitter等を開設して、とにかく印象に残るようにすることなどが手段として考えられる。

2 愛してもらう段階(Love me)
 CMでは、理想的な利用シーンを流すなど、親しみや愛着など、良い印象を持ってもらう事を目的しているのが特徴。
 投稿小説の場合は、作品の冒頭を良くして作品に引き込めるようにする、イベント等に参加して作者として自分を認知してもらえるようにする事が手段として考えられる。

3 買ってもらう段階(Buy me)
 CMであれば買ってもらう段階。買ってもらう最後のステップは業界によりさまざまですが、知ってもらい、愛着を持ってもらっていなければ、買ってもらう段階へ進めないのが特徴と言えば特徴。
 投稿小説の場合は、最後までしっかり読んでもらえるよう、面白い小説を書く事が手段として考えられる。


 広告業界では割とスタンダードな理論なのですが、いかがでしょうか?

 面白い小説を書くことは、売れるための最低条件ではありますが、充分条件ではありません。出版社と作家が役割分担をしている場合でも、それは同じです。

 このように、何かに挑戦する場合、自分がその戦場で戦うための武器を選んでそろえ、分析して戦略を練り、勝利条件を把握する事が不可欠です。運が左右する場面はあるにせよ、運が左右する段階までは自力で上がらないといけないのです。

 ちなみに勝訴敗訴を決めている法廷において、証明責任は、訴訟を起こした側が負うべきものです。例えルールを相手が破っていたとしても、あなたにそれを裁く権限があったとしても、相手に証明責任はありません。

 そんなフィールドで戦おうとした時点で、批判者が勝利条件を把握しようとしていたのか疑問が残ります。もしも僕が編集者ならば、そういった相手と一緒に仕事をするなど、リスク管理の観点から願い下げです。

 これを読んでる皆さんは、正義感を振りかざすのではなく、届かない事に不満を並べるのでなく、ちゃんと面白い作品を書いて、ちゃんと広報活動をして、少しずつ実力を積んでいきましょう。

 実力を積んだ人と、実力を積んでいない人が公平に扱われることは絶対にありません。そういう意味で、世界は公平にできているのですから。