差異が差別を生む

パレスチナ問題や旧ユーゴスラビア紛争が示すように、異質な人々を平和裏に混住させることは難しいが、アメリカで黒人差別が解消されない根本原因も異質さにある。

リベラルは人種による差異や人種の存在そのものを否定するが、

1990年のことだが、私は1人の日本人記者、2人の米国人と雑談をしていた。その際に、「なぜ日本人の子どもは算数に強いか」というテーマになった。日本人記者は、
「理由は簡単だ。人種(race)だ」
と言った。私は、この言葉を聞いた2人の米国人たちの表情が一瞬凍り付いたのに気づいた。
彼らにとって、知的能力を人種によって判断することはタブーだったからだ。記者氏は、自分の発言が高等教育を受けたリベラルな米国人の間では禁忌であることすら、知らなかった。そもそも、算数の能力が人種によって左右されるという考え方自体がおかしい。

SATの数学(800点満点)のスコアには歴然とした人種差がある。

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450点は黒人では49パーセンタイルだが白人では15パーセンタイル、アジア人では8パーセンタイルである。

650点は黒人では97パーセンタイルだが白人では82パーセンタイル、アジア人では53パーセンタイルである。黒人では上位3%の優秀者でも、アジア人に混じれば中位になってしまう。当然、黒人が高給のSTEM分野の職に就くことは難しく、経済格差の一因になっている。

一方で、NBAの選手の大半は黒人、陸上競技でも短距離は西アフリカ系、中長距離は東アフリカ系の黒人が席巻している。大方の日本人は「運動能力が人種によって左右されるという考え方自体がおかしい」という考え方をおかしいと思うだろう。

どう見ても、黒人と白人(やアジア人)には「ハードウェアの差異」が存在することは否定できない。宗教や民族文化といったソフトウェアであれば(是非はともかくとして)強制的に同化させることは可能だが、ハードウェアの差異はどうしようもない。

これ(⇩)がリベラルの理想だが、異質な人々を混ぜると差異が強調され、差別と対立につながることは人間社会の必然である。国内に「ガザ地区」を作るわけにはいかないので、アメリカの黒人差別は解決不能だろう。

少なくともプラトンの『国家』以来、完全無欠な社会を築くという概念は西洋人の意識のなかにあり続けている。左派は存在する限りずっと誰もが仲良くて、協力しあい、自由で平和に生きていける社会を追求してきたのだ。

バブル崩壊後の日本はアメリカをモデルに構造改革を進めてきたが、このような社会(⇩)にならないことを願いたい。

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