ロックリーと日本の協力者の目的

東京大学准教授の一連のポストは、ロックリーに協力して弥助をBlack Prideのアイコンに仕立て上げようとするDEIのリベラル勢力が日本のアカデミアにいたことを示している。彼らはDEIのイデオロギーに沿うように歴史を修正することが正しいと心の底から信じており、鳩山元首相のように「侍文化は日本人だけのものではない(⇒黒人のものでもある)」と世界中に知らしめようとしているわけである。

ちなみに、ロックリーの著書や様々なインタビューで海外に広まっている「真実の弥助像」は、

This was Yasuke.
He entered the halls of power, lived in grand castles and fought on the front line; he became a samurai, a member of one of the most famous warrior elites in history. He was a trendsetter and pioneer who allowed other foreigners to be employed in Japan in droves for decades after until Japan entered a new age of maritime restrictions in the 1630s.

Yasuke: The True Story of the Legendary African Samurai』p.379

英語で読む 外国人がほんとに知りたい日本の文化と歴史』の「27. 中世の日本で最も強かった男 弥助」にある日本人なら誰でも嘘八百と分かるものである。

昔の日本の中で最も大きく、最も強かったone of the biggest and strongest男は実は日本人ではなかったと聞くと驚くかもしれません。弥助という名のその男は、1579年にヨーロッパ宣教師の護衛としてインドと中国を経由して来日したアフリカ人でした。時の権力者として有名な、悪名高いとも言われた武将織田信長の目にとまった彼はたちまち気に入られ、家臣として召し抱えられることになりました。
弥助は、身長188㎝、その剛力は十人力とも言われていました。そして容姿端麗で愉快、賢い人物だったと伝えられています。信長は弥助を身近に置いたとされますが、恋仲であったという説もあります。彼はすぐに昇進し、歴史上初めて外国人として侍の身分が与えられました。彼にはお金や刀、信長の屋敷castle内にある家、そして下人も与えられました。
武芸を奨励した信長が特に好んだのが相撲でした。そして20万人もの見物人が集まった御馬揃えというパレードまでも開催しました。それはさながら現代のオリンピックのようです。弥助は力を競い合う相撲大会に出場したほか、御馬揃えのパレードにも参加していたかもしれません。

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信長のお供として参加した戦では信長の護衛として彼を守り、二人は友情を深めました。
信長のお供となって1年が経った1582年、悲劇が起こります。信長の家来であった明智光秀が謀反を起こしたのです。1万3000人の兵士を連れた光秀は、京都でわずかな近臣だけに警護されていた信長の寝所を襲撃しました。弥助は共に戦い、最後の最後まで信長の側から離れることはありませんでした。信長は切腹しましたが、自分の首が敵の手に渡らないよう弥助に命じました。アフリカの侍はそこからなんとか逃れましたが、後に捕えられました。しかし伝説によれば妻と子どもと幸せに暮らしたそうですhe lived out his days happily in Japan with a wife and chidlren
日本最強の男の精神は現代でも生き続けています。弥助は本や舞台、ゲームの世界でも主人公となっています。「African Samurai」という英語の本も出版されています。

p.239

Q5 弥助はどの戦いに参加しましたか?
A5 弥助は信長のお供として2、3の戦を経験しています。一つ目は信長が複数の忍者に襲われた時、二つ目は信長が富士山周辺の地域を制圧した時、三つ目が本能寺の変です。弥助の主な役割は信長の護衛と、国外の事柄についての助言でした。

p.243

16世紀の日本には用心棒や水兵、使用人として、また商人として300~1000人のアフリカ人が住んでいました。

p.240

「講釈師見て来たような嘘を言う」の通りで、ロックリーとその協力者は学者ではなく講釈師である。

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