ファクトチェック:トーマス・ロックリーは「日本が黒人奴隷を生んだ」とは書いていない……が

ロックリーの偽史騒動に尾鰭が付いてしまっているようなので、黒人奴隷について2017年の著書『信長と弥助』にどのように書かれていたかを確認する。

イエズス会士は清貧の誓いを立てて奴隷制に反対しており、通常はアフリカ人を伴うことはなかったからだ。ポルトガルやアジアのほかの地域から来た貿易商たち――宣教師とは異なる行動原理を持つ外国人たち――がアフリカ人を伴うことはあったが、この当時は貿易商が九州沿岸にある港から離れることは滅多になかった。したがって弥助は内陸部に赴くたびに、大騒ぎを引き起こした。地元の名士のあいだでは、キリスト教徒だろうとなかろうと、権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まったようだ。弥助は流行の発信者であり、その草分けでもあった。

信長と弥助』p.16
強調は引用者
弥助に関する記述は史料にないのでロックリーの創作

「権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まった」という説がどこから来たのかだが、ロックリーは中国の広州と同じ現象が九州でも生じていたと考えた可能性がある。

マカオやゴアにも多数の奴隷が暮らしていて、その数はヨーロッパ人の人口の約六倍にものぼった[22]。奴隷の多くはアフリカ系だった。そのほかにもアフリカ系自由民や混血の人々がアジア諸国で暮らしていた。中国や東アジアの港町については、アフリカ人が暮らしていたということと、全員ではないが、そのほとんどがポルトガル人の奴隷だったこと以外はわかっていない[23]。広州の商家では、アフリカ人奴隷をたくさん買うことがステータスシンボルだったと言われている[24]。
 
[22]Souza, The Survival of Empire, p.33
[23]Wyatt, The Blacks of Premodern China: D Sousa, The Early European Presence in China; J.K.Chin, A Hokkien Maritime Empire in the East and South China Sea, 1620-83. In Persistent Piracy: Maritime Violence and State Formation in Global Historical Perspective by Stefan Eklöf Amirell and Leos Müller (Eds.). 2014 (Basingstoke: Palgrave MacMillan), p.100-103; MORAIS, “China Wahala”: the Tribulations of Nigerian “Bushfallers” in a Chinese Territory.”
[24]Wyatt, The Blacks of Premodern China: Allen, European Slave Trading in the Indian Ocean.

p.217
強調は引用者

日本における奴隷に関する記述は58ページと126-127ページにほぼ同じ内容のものがある。

ポルトガル人などの外国人は、本国から弥助のような奴隷や召使を連れて来日し、なかには日本人に売り渡される奴隷もいた。当時の奴隷制度の形態は、現在、一般的に考えられている形態とは異なり、契約労働者に近いものだった。日本在住の黒人、中国人、朝鮮人奴隷たちは職業を持ち、所有者の家に養子として迎えられたり、家族の誰かと結婚したりすることもあった[27]。
弥助の雇用主だったアレッサンドロ・ヴァリニャーノをはじめとして、アジア地域のカトリック宣教師たちは、公式には奴隷貿易に反対の立場を取っていた。一方、アジア(とりわけゴア)のポルトガル植民地、ひいてはキリスト教布教拠点が、アフリカ人、ポルトガル人、現地民の奴隷や契約労働者の労働力なしには成り立たないことも理解していた。そこで彼らは良心の呵責を和らげるために、奴隷の待遇の良さを強調し、奴隷の魂が救済される――自由な身分の異教徒よりも、魂が救済された奴隷のほうが幸いである――という宗教的解釈で奴隷制度を正当化した。

[27]Nelson, “Slavery in Medieval Japan.”

p.126-127
強調は引用者

ちなみに、2019年の『AFRICAN SAMURAI: The True Story of Yasuke, a Legendary Black Warrior in Feudal Japan』には、日本の子供がイエズス会公認で海外に売られるシーンが描かれている。

Months after its arrival in Japan, the Portuguese black ship prepared to depart at last, sailing back to Macao on the fall winds. A forlorn scene had presented itself as Yasuke accompanied Valignano to the docks to bid the vessel farewell when the last goods were loaded onto the departing nao.
Human good. Children.
Most less than ten years old, being herded aboard by the sailors. There was no resistance, their young faces bewildered or terrified. Yasuke wondered what would happen to them. The comments of other Jesuits around him made it all too clear. These were “lucky” ones, those who would have their souls saved.

「日本で黒人奴隷が流行した」も重要ではあるが、核心はそこではなく、弥助は織田信長の親友・右腕で、明智光秀や高山右近らと同格の有力武将になっていたというトンデモ説が既に世界に広まっているということである。既にロックリー以外の本も多数出版されており、海外在住の日本人が書いた『侍:宮本武蔵、弥助、織田信長、他』というとんでもないものまである。

https://www.amazon.com/s?k=Yasuke

これほどの重要人物が歴史から消されたのは日本人の黒人差別のためだ、となるのは自然なことである。

JFCは、日本大学法学部のロックリー・トーマス准教授に話を聞いた。著書に「信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍」がある。
ロックリー准教授によると「数十人から100人を超える黒人がポルトガルの貿易商などの従者として連れてこられ、長崎や口之津など九州の港町にいたのではないか」という。

それにしても、日本人はどうしてこんなに👇甘い(平和ボケ、お人よし、間抜け)のか。

これは明白な"culture war"、文化侵略であり、「ふんわり軟着陸」することはあり得ない。

https://www.youtube.com/watch?v=IgK8UsSZQ9c&lc=UgxIOkwXBIldRvJyeOx4AaABAg.A64ATFaDxWcA64AzVhNilx

「日大はロックリー准教授の経歴を抹消」とあるが、炎上する前から掲載されていなかったはず。

付録

ロックリーは同じ本の中でも違うことを書いている。例えば、第二章「弥助の経歴を紐解く」のこれら👇の記述は「弥助の役目は護衛であり、刀持ちであり、小姓」「友人のような立場」を除くと概ね問題ない。

まず、弥助には苗字がない。これは重要な点だ。下層の民とは異なり、侍は先祖代々の、あるいはそれに準ずる家名を持つものであり、その家名は昇進したり君主に気に入られたりすると変わることもあった。

p..74

光秀にしてみれば、弥助はその名を国中に轟かせているわけでもなく、彼と直接かかわった堺や京都や安土に暮らす人々をのぞけば有名でもなく、注目に値するほど身分も高くない男だったのかもしれない。もし弥助を重要だと考えていたなら、かならず首を討ち取ったことだろう。この現実を認めておかなければ、黒人侍と彼の功績を過大評価することになる。ありままの現実を見つめれば、弥助の役目は護衛であり、刀持ちであり、小姓にすぎなかった。後年、外国人侍となったウィリアム・アダムス、ジョアン・ロドリゲス、ヤン・ヨーステンのように政治的な役目を担っていたわけでもなく、信長の友人のような立場だったのだろう。弥助という存在の影響は、詳しくは第三章で論じるが、当時よりも現代のインターネット時代のほうが、よりその重要性を増すのかもしれない。

p.84

ところが、最終章の第七章「弥助の生涯を推測する」の締め括りでは「日本史上もっとも有名な黒人」になっている。

弥助として歴史に名を残した男の血は、もしかしたら、今も日本南部の島々か日本の南西の海のどこかで暮らす日本人、中国人、フィリピン人のいずれかの島民の体に脈々と受け継がれているのかもしれない。日本史上もっとも有名な黒人の魂は、四世紀半以上経っても忘れられることなく、伝説として、また世界中の人々に多様性に富んだ閃きを与えらる源として、今も私たちとともにある。弥助、君に心からの敬意を。

p.243
強調は引用者

ロックリーは『信長と弥助』を"academic book"と称しているが、学術書にこの👇スタンスは禁物である。

この本の基となった弥助に関する論文を読んでくれた専門家の言葉を借りれば、こういうことになる。「君は最大主義者マキシマリスト的手法を取っているように思う。同じだけの確率で“ないかもしれない”場合にも、だいたいにおいて“あるかもしれない”方法を採用している。とはいっても、史料が不充分な場合には、そうでもしないと先に進めないだろう」。その言葉は、本書のスタンスを端的に表している。

p.257

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