フェミニストの猿的文化大革命(と保守化するリベラルについて)

フェミニスト

フェミニストが先鋭化しているのは、

彼らが文化大革命の紅衛兵のような心理状態になっているためと思われる。社会学者や弁護士、著名知識人など言論・思想界のリーダー的存在が「権力を持つ者」で、『動物農場』の🐷に相当する

権力を持つ者が「敵」を仕立てあげて大衆動員で攻撃する恐ろしさ。それに呼応した大衆がデタラメな理論をふりかざして目上だったはずの人達をめった打ちに攻撃し、それであたかも正義を実行したかのような爽快感を味わう大衆運動の恐ろしさ。文化大革命の狂気が見せつけているのは、権力の恐ろしさであり権力者の恐ろしさであり、政治そのものの恐ろしさであり、人間そのものの恐ろしさであるに違いない。

現代フェミニズムは1960~70年代の新左翼運動の流れを汲んでおり、建前上は理性に基づいているが、その下部には「汚染された世界を浄化する」という宗教的情熱、さらにその下には「劣等男の排斥・性欲の無害化」という女の猿的本能(負の性欲)がある。

A progressive is someone who wants to see more economic and social equality - and hopes to see more gains in feminism and gay rights.
Pretty much all of of these progressives "view politics as a bottom-up progress", … and they support the fight for social change.

女の「汚らわしい劣等男の排斥・無害化」の本能(負の性欲)

十字軍の「汚染された世界の浄化」の想念

新左翼の革命運動(理性に基づく理想社会の建設)

フェミ紅衛兵は理性ではなく猿的本能から発する感情で動いているので、話し合いは成立しない。。

十字軍にはいかにも西洋的、欧米的な特性がこびりついている。先走っていえば、その特性はなによりもキリスト教的武力行使、つまり聖性と暴力の結合にある。
ここにあるのは共存の思想ではない。異教徒による「汚染」の「浄化」という排斥の思想である。「聖地」エルサレムの聖性を貫くために、汚染された異教徒を「浄化」しなければならないという想念が、ここに見出される。これが「平和」を求める参加者たちの琴線に触れたのは確かだろう。
フェミニズムの「主要な敵 main enemy」は男性であることを私は公言してはばからない。男との敵対を避けたい似非フェミニストの女や、女性との対決を避けることでフェミニズムの問題性を無化したい反フェミニストの男だけが「男と女は共通の敵に向かって共闘できる」と無邪気に信じたがる。
男性との対決と彼らの変貌を経ないでは「男女共生」はありえないのに、対決の時代は終わったとする言説は、ただ「男を敵にまわしたくない女」か「女にこびたい男」にだけ支持される。

現代の十字軍戦士がsocial justice warrior(SJW)。女のフェミニストに味方する男は、女に好かれたいという正の性欲(スケベ心)で動いている。

日本の活動家の背後には西洋のリベラルがいることにも要注意(自民党にも相当食い込んでいる)。西洋のリベラルにとって、多くの日本人は異教徒であり「浄化」の対象である。萌え絵が狙われるのは、西洋人には児童ポルノに見えるため。

リベラル

この記事は「本当のフェミニズムは男も解放して生きやすくする思想」と同様の美しい誤解をしている。

人びとの「素直な人情」にしたがってしまえば、けっして擁護されず、存在も認められないようなものにこそ人権があったことをリベラリストたちは熟知していた。だが、規範主義的な抑圧と対峙しているうちに、リベラリストたちも無自覚のうちに規範主義的な方法論を採用するようになってしまったのかもしれない。

そうではなく、現代のリベラリズムは「絶対的な正しさ」の全世界的実現を目指す普遍主義なので、最初から規範主義的なのである。

人民の解放を唱えた共産主義が自由と大量の人命を奪ったり、愛や寛容を唱えていたキリスト教が異教徒・異端を殺戮する宗教になったようなもので、現代リベラリズムはキリスト教に代わるルサンチマンの宗教(イデオロギー)と考えればよい。「多様性」「寛容」「包摂」を掲げていたのは価値転換(革命)のための手段なので、目的を達成すれば弾圧する側に回るのは必然である。

現代の聖職者のリベラルエリートは、「差別」を「罪」とすることで、民衆の心を支配しようとしている。

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