2011年の日銀の国債直接引き受け論争

2011年の東日本大震災の翌月に、日本銀行金融政策決定会合で日銀の国債直接引き受けが議論されていた。

復興支援に向けて総額1兆円を金融機関に低金利で貸し出す制度の創設が決まった4月7日の決定会合。亀崎英敏審議委員は、民主党内で待望論が出ていた日銀による国債の直接引き受けを強い言葉で批判した。
政府側の意見を述べるため出席した桜井充財務副大臣は、「政府としてそのような検討は全く行っていない」などと釈明に追われた。

4月6・7日の議事録にある。

亀崎委員は121ページ、櫻井財務副大臣は149ページ。

白川総裁は128ページ👇。

高橋財政について亀崎委員から言及があったが、私も高橋財政について改めて若干の勉強をしたりもしたが、高橋財政を始める時に、これは一回限りであると当時から言っていた。後に日銀の総裁になった深井英五氏が書いている「回顧70年」では、高橋蔵相は当初からこれは「一時の便法」と呼んでいた。本人が本当はどう呼んでいたのかと思って、この前帝国議会の議事録をみてみたのだが、高橋蔵相自身が議会で使った言葉としては「一時的性質」と言っている。要するに、これは一時的なものであるということを明言している。多くの中央銀行の引受けは、勿論そのようにして始まっている訳だが、引受けは取り敢えず便利なので、それであるが故に歯止めが利かなくなり、激しい通貨安あるいはインフレということをもたらした。ある意味で、人間というのは自分達の弱さを知っているが故に、それを自覚するが故に、予め引受けを禁止するということを取り極めている。人間はある意味で弱いのだが、それを自覚してそうしたルールを組み込むだけの強さというか賢さは持っていると私は思う。

「一時的」とは、当時は短期間に大量発行される国債を民間消化できる状況ではなかったので、一時的に日銀が引き受け、徐々に民間に売却していく必要があったことを指す。日銀は最終的な引き受け手ではなく、プライマリーディーラーのような役割を果たしただけだった。

当時、日銀は国債を全額引き受けてはいたが、売りオペによって全て市中で売却していたのだ。つまり、日銀は国債を抱え込んでいなかった。
この時の経験から、国債の発行時と買い手が見つかる時期に時間差が生じること熟知しており、世界恐慌の際、日銀に一時的に引き受けさせて、買い手を探す時間を稼いだのだろう。当時は債券市場が未成熟だったので、こうした手法を編み出したのではないか。
当時、高橋は、「公債が一般金融機関等に消化されず、日本銀行背負込みとなるやうなことがあれば、明かに公債政策の行詰りであって悪性インフレーションの弊害が現はれ、国民の生産力も消費力も共に減退し生活不安の状態を現出するであらう」(原文)と語っていた。
満州事変もあり財政拡張は避けられず、その上財政拡大策もあり大量の国債発行が必要となった。その民間消化はシ団との関係のもつれ、国債相場の暴落もあって困難となり、日銀の国債引受という手段を取らねばならず、インフレ抑制のために売りオペを行うことを想定していたと思われる。
日銀の引受方式による国債発行は、デフレ脱却のための手段というよりも、国債発行手段として外に手段がなかったためとの見方も可能となる。さらに高橋是清ならば、出口政策も可能との認識も本人を含めてあったことも考えられる。

2011年の時点では民間金融機関の消化能力が十分だったので、日銀が一時的に引き受ける必要はなかった。リフレ派の憎悪の的の白川前総裁だが、金融緩和に消極的だったわけではない。

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