「家族の呪縛」と少子化の嘘

The Economistが東アジア諸国(日中韓台)に少子化対策として"Let them not wed"を勧めているが、もちろん、家族の解体を目指す西洋リベラルの戯言である。西洋と東亜における「婚姻」の意味が異なることすら考慮していない論考には全く価値はない。ましてや、同性愛や同性婚の推進が少子化対策になるという主張は意味不明である。

東アジア諸国の超低出生率の説明として、家父長的・男尊女卑的な「家族の呪縛」が強過ぎる→女が結婚したがらない、というものが流行った時期があるが、多くの西洋諸国(特に北欧諸国)でも非カップル化と出生率低下が進んだために、この説は説得力を失っている。

多くの人にとって結婚は時代錯誤で、「手の届かない贅沢」となりつつあるのだ。

はある意味正しいが、それは経済的なものではない。「一人口は食えぬが二人口は食える」と言われるように、本来、結婚生活は金銭的には「贅沢」とは言えないからである。手が届かないのは、自分が理想とするスペックの配偶者である。

東亜の高度経済成長を可能にした資質とは高い目標水準・要求水準と達成力だが、これが配偶者選び・結婚生活に向けられると、水準をクリアした相手が不足するので、非婚化・少子化が進んでしまったわけである。教育水準の上昇やエンパワーメントは少子化対策ではなく促進策である。

東アジアの女性の教育水準は世界的にみて最高レベルにあるが、女性のエンパワーメントのための取り組みは少なく、さらに減少の傾向にある。

付録

渡辺京二「ポストモダンの行方」より。西洋リベラルが家族の解体に熱心な理由を知る手掛かりになる。

たとえば家庭崩壊などと嘆かれるけれども、どうして家庭が崩壊していけないのか。人間にとって家庭が必然不可欠の制度であるという根拠がどこにある。どこにもありはしない。われわれは家庭など必要としない新しい文化を生み出しつつあるのだと考えてどうして悪いのか。また、どうして男が男らしく女が女らしくある必要があるのか。男が女みたいな格好したって、その逆であったって、一向構わないじゃないか。だって、ある自然性にもとづいた男らしさ女らしさなんて存在しないのだし、そういうものはすべて恣意的な文化的規範にすぎないのだから、というわけです。そして、そういう過去からひきずって来た共同的な幻想を解体した先に、人類がこれまで経験したことのない自由で楽しい、遊びにみちた世界を展望するのが、今日のポストモダン論者の特徴です。

脱構築論者はそういう近代が創りだした物語の解体をめざしておりますので、自分たちの営みをポストモダンと称するわけですけれども、彼らの言説の行きつく先を見ますと、何のことはありません、おそろしく単純化された自由の擁護、個人の権利の主張、国家的諸制度に対する市民主義的抵抗、フェミニズム・マイノリティ擁護・コスモポリタニズムへの傾斜、一切の規範・拘束への嫌悪等々において、彼らは実に実直にして素朴な近代的価値の信奉者であることが明白になってまいります。自己決定権という彼らの滑稽なスローガンは、何ものにも拘束されざる自由にして全能の個人という、近代の透明かつ単純な原子論的人間像の戯画にほかなりますまい。

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