弥助は「みなし侍」?

ネットで論争が続いている「弥助は侍だったのか否か」だが、この👇見解には納得感がある。

弥助が信長が個人的に取り立てたことで侍身分になるとしたら、信長が死んだことで侍身分ではなくなった、てことだと思いますけどね。

勝手に解釈させてもらうと、信長が直に見た目採用したことで名目(形式)的には侍扱いになったが、実質(勤務実態)はそうではなかった、つまりは「信長付みなし侍」のようなものだったのではないか。あくまでも「信長が側に置いている」から侍扱いなので、信長が死ねば「只の部外者」に逆戻りで、光秀も「前の職場に返せ」となったのだとすれば筋が通る。

54分過ぎではこちら👇の指摘にも触れているが、一般人は実質の話をしているのに専門家は名目の話をするので話が噛み合わなかったと言える。

問題になっているのは、英国出身で日大准教授を務めるThomas Lockley 氏が、”African Samurai” と銘打って弥助を海外に紹介したことなのだから、大事なのは「欧米人が”Samurai”と聴いたときに頭に浮かぶイメージ」なのです。まぁ、ふつうは渡辺謙が映画の”The Last Samurai”(2003年)で演じたような武将になりますわね。CNNの弥助記事も現に、ヘッダー写真のとおりでして。
対して、99%は日本人しか居ない日本の歴史学会で「侍をこう定義している」なんて話は、誰もいま聞いてないしお呼びじゃないのです。グローバル・スタンダードな”Samurai”のイメージに、弥助の実態は合致していたんですか? と訊かれているのに、「日本中世史の武士研究では…」とか超ドメスティックな答えを返されましても。

ロックリーは弥助は信長の側近中の側近(護衛兼軍師)だったと主張しているが、馬廻や母衣衆に入っていたという記録も、👇のように武功をあげたという記録もないので、単にお供をしているだけだったのだろう。

設楽原の戦いで鉄砲奉行を務めたのは、信長の馬廻あるいは黒母衣(赤母衣)衆などの側近中の側近だった。つまり、彼らは百戦錬磨の精鋭中の精鋭だった。ここに勝利のカギがあるのかもしれない。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/a6058f23e9c260899cc9f9d19cdcf678c98f0e8c

ロックリーが創造した弥助像は西洋では「史実」になっているので、Ubisoftの開発者は弥助を史実に基づいて再現したら👇になると本気で思っていたのだろう。

Ubisoft

👇は「誰もいま聞いてないしお呼びじゃない」の見本。それにしても、この人はいつもどうしてこんなに偉そうなのか。

このタイミングでこの👇ようなバカ記事を出す神経を疑う。

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